2015年10月22日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月22日(木)12時17分31秒 通報 ■ 人を助けて、自分も癒される 名誉会長: 人を救うことによって、自分も救われる。これは心理学のうえからも言われています。癒しがたい心の苦しみを担って、「生きる力」をなくしてしまった人が、どうやって立ち直るか。 いくら自分の苦しみを見つめても、ますます落ち込んでしまうケースが余りにも多い。それと反対に、同じような苦しみを味わっている人のもとへ行き、その人を助けることによって、自分も「生きる力」を回復するというのです。 他者への「思いやり」の行動が、自分を「癒す」のです。 斉藤: 人を助けることによって、自分が助かる。まさに「自他不二」です。その意味で、折伏には「相手に感謝しながら」という謙虚さも含まれていますね。 遠藤: 親子だって、子どもの成長を楽しみにすることが、どれほど親自身の「生きる力」になっているかわかりませんから —- 。 名誉会長: 現代は、「人に尽くす」ことが、何か「損」のような風潮がある。 「慈愛」などというと、冷笑されるような雰囲気もあるが、そういう傲慢が、どれほど社会を不幸にしているか、はかり知れないね。 ガンジーに、ある時、アメリカ人宣教師が聞いたという。「あなたの宗教とは何ですか、インドの未来の宗教はどのような形をとるのでしょうか」。 難しい宗教論議をふっかけられたガンジーは、何と答えたか。 ちょうど、その部屋に二人の病人が伏せっていた。 ガンジーは二人を指さして、あっさりと、こう答えた。「奉仕すること、仕えることがわたしの宗教です。未来のことなど慮っていません」。そして、ガンジーにとって、政治もまた「奉仕」であり、「最も貧しい人」たちに仕えることだったというのです。 <森本達雄著『ガンデイーとタゴール』レグルス文庫(第三文明社刊)から> 行動です。「菩薩行」にしか宗教はない。仏法はない。本来の政治も、教育もない。 斉藤: 数年前、ある学者が、日本が行き詰まっている原因を、こう論じていました。 「一九四五年の敗戦に至るまでは、天皇制が『宗教』の役割を果たしていた。ここでいう宗教とは、国民的アイデンティティーと社会規範の源泉を意味する」(京都大学の佐和隆光教授、『世界』九五年十一月号) 戦後、天皇制に代わって「宗教」の役割担ったのは「マルクス主義ないしその亜流」。 六〇年代の高度成長時代に「新しい『宗教』となったのが、欧米先進国に『追いつき追い越せ』の国民的願望にほかならない」。 この願望は、八〇年代から九〇年代に、経済大国となって達成され、「『追いつき追い越せ』教」の役目は終わりました。そこで「もう一つの『宗教』を見いださない限り、この国は『規範なき社会』とならざるを得まい」 —- こういう論です。 遠藤: たしかに「規範なき社会」です。社会の止め金がはずれて、何もかも、ばらばらになってしまった感じです。何が起こっても不思議ではない不気味ささえ感じます。 名誉会長: 無宗教国家・日本の悲劇です。だからこそ、私たちの使命は大きい。 「蔵の財より身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(御書p1173)です。 「蔵の財」 —- 経済のことばかりいじくっても、経済そのものだって、良くはならない。かりに良くなっても、社会は幸福にならない。 人間です。心です。心がすべてを動かす。 如来は「大施主」とあったが、妙法の弘教とは最高の「心の財」を施すことです。 福運と智慧にあふれた「心の財」があれば、そこから、本当に豊かな「身の財」「蔵の財」も備わってくるのです。 斉藤: 二十一世紀に向かって、一番大切なことだと思います。 名誉会長: 人生、最後に何が残るのか。 思い出です。生命に刻まれた思い出が残る。 モスクワで会った作家のショーロホフ氏が、こんなことを言われていた。 <ノーベル文学賞作家。代表作『静かなドン』『人間の運命』。名誉会長との対話は、一九七四年(昭和四十九年)九月> 「長い人生になると、いちばん苦しかったことは、思い出しにくくなります。長くなると、いろんな出来事の色彩がうすくなり、一番うれしかったことも、一番悲しかったことも、一切合切、過ぎ去っていきます」 そして一呼吸おいて、こう言って微笑まれた。「私の言うことが真実だということは、池田さんが七十歳になった時にわかるでしよう」。味わい深い言葉です。 一切は過ぎ去る。天にも昇らんほどの喜びも、死のうかと思うほどの苦しみも、過ぎてしまえば、夢のようなものです。そのうえで、私は「生命を完全燃焼させた思い出は、永遠に消えない」と言っておきたい。なかんずく広宣流布に燃やしきった思い出は永遠です。 この世に生まれて、一体、何人の人を幸福にしたか。何人の人に「あなたのおかげで私は救われた」と言われる貢献ができたか。 人生、最後に残るのは、最後の生命を飾るのは、それではないだろうか。 「南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(御書p467)です。 それが冒頭に話した戸田先生の「今日、死んだらどうするか」という思索の結論と言えるのではないだろうか。 (法華経の智慧 第5巻 了) ※第6巻開始は準備中の為、暫しお待ち下さい。 Tweet