投稿者:河内平野 投稿日:2015年10月 4日(日)11時33分53秒   通報

さて兵庫といえば「大楠公」を思い出す。戸田先生がたいへんお好きであられた。

昭和二十六年(一九五一年)、会長就任の年、戸田先生は、論文「創価学会の歴史と確信」の末尾で、
楠木正成の史実にふれられた。

「楠正成が尽忠(忠義を尽くすこと)の志あるにかかわらず、愚迷の大宮人(朝廷に仕える貴族)藤原清忠あって
湊河原に死出の旅路にたったことは、あまりに有名である」(戸田城聖全集第三巻)と。

一三三六年――大聖人御入滅の約五十年後――足利尊氏は圧倒的な勢力で都(京都)へ都へと迫っていた。

正成は尊氏軍を迎え討つべく兵庫に出発する。
兵力の差はあまりに歴然としていた。真正面からあたっては勝ち目はない。

軍略の天才といわれた正成は一計を案じ、後醍醐天皇に兵庫での決戦を避け、
新田義貞の軍とともに比叡山に撤退することを進言する。

さらに正成自身も大坂の本拠地に帰って近畿一円の軍勢を集結し、
淀川の河口を塞ぎ、敵を兵糧攻めにしようと計画した。

そして疲れたところを義貞とともに南北両方から一気に攻め落とすことを提案したのである。

しかし、せっかくの作戦も天皇の側近であった貴族・藤原清忠によって拒まれてしまう。

自分は戦いもしない。
ゆえに戦いの現実も知らない。
敵の力もわかっていない。

ただ嫉妬の心、人を抑えつけたいという心だけが強い。
わがままな子どもが権力を握っているようなものである。

『太平記』によると、その貴族はこう言った。

「かつて尊氏が東国の大軍を率いて攻め込んできた時でも、味方は小勢ながら勝ったではないか。
もっとも、これは武士の戦略がすぐれていたからではない。

ひとえに天皇の運が天命にかなっていたからである。
ゆえに今回も難なく敵軍を滅ぼすことができるはずだ。即刻、正成は戦え、敵を迎え討て」と。

【第十三回関西総会、第五回兵庫県総会、常勝の花満開総会、県・区代表幹部会 平成三年十月十六日(全集七十九巻)】