2015年11月14日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年11月14日(土)22時32分24秒 通報 ・永遠の希望様 >先生が教えて下さったことを実践することを教条主義と言う人がいます 私はそれはおかしな批判だと思います< いかなる時代や状況であっても、安易に「教条主義」という言葉を用い、師の言葉を軽視するようなことがあってはならないと考えます。池田先生は、戸田先生の言葉を誰よりも大事にされ、師の、一言一言を蔑にされることは決してありませんでした。もちろん、時代に合わない指導は変えてきたようですが、それは師の真意を理解している、本物の弟子であってこそ可能であり、簡単な話ではありません。師の指導の真意をさもわかったかのような姿勢で、「教条主義」と断じること自体が危険であり、増長している弟子と言えます。 師の指導を遵守するのが原則ですが、それだと、どうしても時代に合わず、広宣流布の妨げとなるのであれば、皆が納得し、安心できるだけの整合性ある説明が必要となります。不十分な、誠意なき対応は許されない。たとえそれが正しいことだとしても、必要以上に会員が苦しむことのないよう、また、誤解のないように、圧倒的な配慮ができてこそ仏法者です。それができないこと自体が、師の真意を理解できていない証拠であり、失格なのです。 ・虹と創価家族様 >迷ったとき、苦しいとき、大事なとき、悲しいとき、人生で進むべき道を決めるとき。 このような「まことの時」にこそ、先生の言葉を思い出し、自分で道を決めてゆく事です。< 先生の指導というのは、逆境であればあるほど響いてきます。戦えば戦う程、まるで自分に対して話をされているかのような感覚になります。先生の基準は、どこまでいっても一番苦しんでいる人、戦っている人であり、極限の中でこそ、師の真意を理解することができるのだと実感するところであります。人生の一大事の時、どれほど先生の指導が力となるか。このような体感・体験をされている会員はたくさんいるでしょうし、先生との「絆」があったからこそ、ここまで広宣流布を拡大することができたのだと思います。 先生との絆が深ければ深い程、師の指導を大切にするでしょうし、時代に合わないからと、軽々しく捨て去るようなことはできない。厳密な検証や、深い祈りや思索もなく、「教条主義」と言ってしまう人間を、私は信用しない。師の心を死すような愚かな弟子が、仏法を滅ぼしてきた事実があるのだから、慎重であってもらいたいものです。 Tweet