投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月11日(日)11時40分37秒   通報

10月11日付(本日)聖教新聞 「創価栄光の集いへの創立者のメッセージ」より

「私が『文化人類学』とはどのような学問でしょうかと尋ねた折り、ヤーマン博士は明快に即答され、『他の人びとを理解しようという試み』と定義してくださいました。私は感服しました。『他の人びとを理解する』ことは、牧口先生が、郷土・北海道の先住民であるアイヌの方々をはじめ、全世界の各民族に対して貫かれていた姿勢でもあります。」

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相手を理解していこうなのか、それとも理解させようなのか。前者は「聞く姿勢」となって現れ、後者は「一方的な姿勢」となって現れる。それがさらにエスカレートすると、「排除」となる。聞く姿勢の中に人間主義があり、一方的な姿勢は権威主義であり、排除の姿勢は魔性である。聞くことが仏道修行の根本であり、学会活動というのも煎じ詰めれば、人間の中に入り、相手を理解する戦いと言えましょう。

そもそも同苦の精神というのは、相手を理解しようとする不断の努力の中で培われていくものである。そのために相手を知ることが大事であり、そこには「わからせよう」などという上から目線の姿勢など皆無である。組織の論理が優先されると、理解しようというよりも、理解させること、即ち、「方針に従え」となりがちである。これは人間主義の世界からの逸脱を意味し、もはや、仏法者としての体を為していない。

創価学会は人間主義であり続ければこそ、仏意仏勅を名乗ることができる。学会と宗門の差はまさにここであり、学会が権威主義となってしまったら宗門とほとんど変わらなくなる。「会長が上、会員が下」というのは権威主義を指し、こうなったら邪教(日蓮大聖人の精神がない)である。これをいかに食い止め、清浄化していくか。このことを考えていくことが、会員一人ひとりの責務であり、問題意識でなければなりません。

問題意識を持つ会員が増えれば増えるほど、第六天の魔王は嫌がります。自分たちの思うようにコントロールできなくなるからです。相手をコントロールしたいというのが魔性の心であり、その反対に位置するのが、「納得の対話」です。納得の対話なきところには、必ずと言っていいほど、魔性の心が入りこんでいます。

コントロールにおける団結なのか、それとも納得における団結なのか。両者は似て非なるものである。コントロールにおける団結は「不信」を根本とし、納得における団結は「信」を根本とする。信用、信頼があるからこそ、相手を尊重し、耳を傾けることができる。不信であるならば、疑心暗鬼となり、力で押さえつけようとする。

法華経とは円融円満であり、すべてが欠けることのない最高の法です。そこには納得があります。納得を生めないこと自体が、何か不備のある証拠とも言えますので、改善する余地があると見るのが妥当でしょう。力なき正義は、悪に等しくなるのと同じように、納得を生めない幹部は、ただの幹部どころか、広宣流布の邪魔な存在になり得てしまう。

理解が納得を生み、納得が歓喜を生む。南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜であり、それが創価の世界です。歓喜の信心の中に本当の広宣流布の道があり、それ以外は邪道です。コントロールにおける団結は、歓喜を奪い、信心を壊してしまう。コントロールか納得か、すべては微妙なる一念の差なのです。