2015年9月22日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月22日(火)13時10分1秒 通報 ■ 「本有の生死」 須田: はい。大聖人は、こう言われています。「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり」(御書 p754)。 〈生死を見て、嫌い離れるのを「迷い」といい、「始成正覚」というのである。一方、本有の生死(本来、永遠にある生死)と知見するのを「悟り」といい「本覚」というのである。今、日蓮と門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るとき、「本有の生死」であり「本有の退出」であると悟るのである〉 ──────────────────────────────────────── 「御義口伝」から 「自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍って自我偈は自受用身なり」(御書 p759) (自我得仏来の)「自」が(自我偈の)始めの文字であり、速成就仏身の「身」が終わりの文字である。自我偈は始めから終わりまで一貫して「自身」のことを説いている(別しては日蓮大聖人、総じては信心修行する者自身のことを明かしている)。「自」と「身」の間の文字は受用を意味する。したがって、自我偈は自受用身(ほしいままに受け用いる身)となる。 ──────────────────────────────────────── 名誉会長: これこそが真実の仏法の生死観です。釈尊の仏法の場合は、「永遠の大生命」のほうに目を向けさせようとするあまり、「生死を離れよう」という傾向性を、まだ残しているとも言える。 しかし、大聖人の仏法では、その「永遠の大生命」に基づいて、「本有の生死」を生き、「生死即涅槃」を実現していくのです。 斉藤: 西洋でも、仏教というと、生も死もない「涅槃寂静」の世界を思い起こす人が多いようです。 須田: 小乗教によって強調された「生死・輪廻を繰り返さない境地」が涅槃だという考え方ですね。 ■ 生も仏、死も仏 名誉会長: 寿量品では、それを否定した。そのような「涅槃」は人々を導くための「方便」にすぎないとしたのです。それでもやはり、力点は「生死を超えた世界」のほうに傾いている。それに対し、大聖人の仏法は、ただちに「本有の生死」と説くのです。 それでは、南無妙法蓮華経の大生命に「命く」本有の生死とは何か。大聖人は仰せです。「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(御書 p724)と。 三世永遠にわたって、自由自在の境涯です。「法性の大地を生死生死と」とは、妙法の大生命に命いた生死です。大宇宙即自分自身の「仏界の大地」に根ざした前進です。 譬えていえば、九界の生死は、でこぼこ道を揺られながら、難行苦行して、ぎごちなく進んでいる姿と言えよう。ときには底なし沼に落ちこんで浮かび上がってこれなかったり、事故ばかり起こして傷だらけになる場合もある。それに比べて、仏界の生死は、ハイウエーを最高の車で悠々と進んでいくようなものです。ときには周囲の風景も楽しみながら、人々を救うために、大生命力で行動していくのです。 遠藤: 生も死も仏界の大地の上を行く —- 日本では「死んでから仏になる」という考えが強いですが、違いますね。 須田: 大聖人は「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり」(御書 p1504)と言われています。 〈(亡くなられたあなたのご主人は)生きておられた時は生の仏、今は死の仏。生死ともに仏です。「即身成仏」という大事な法門が、これです〉 斉藤: まさに生死不二です。 名誉会長: だから、現世で勝たなければならない。今世の勝利が、死後の勝利であり、来世の勝利であり、永遠の勝利です。戸田先生は「この世でよくなれば必ず後生もよいのです」と言われていた。 遠藤: 今世の不幸はそのままにしておいて、「死後の幸福」だけを教える宗教もあります。しかし、大聖人の仏法は、そうではない。今世の幸福の「実証」が、死後の幸福の証明であり、来世の幸福の証明であるとするのですね。 名誉会長: 「永遠の生命」といっても目には見えない。見せることもできない。その意味では、通常の「知」の次元を超えた「信」の領域と言えるでしょう。 しかし、それだけでは、「死後」について、どんなデタラメを言ってもわからないということになりかねない。 須田: 事実、そういう宗教は多いと思います。 名誉会長: しかし日蓮大聖人の仏法は「生死不二」であるゆえに、「生」の姿のうちに、「死後」の姿が現れていると見る。もしも、この仏法を信仰して、今世で幸福にならなかったならば、死後の幸福といっても、なかなか信じられないでしょう。 反対に、今世で幸福の実証が出るならば、死後の幸福も間違いないと信じられる。大聖人の生命哲学が間違っていたなら、今世でも大功徳が出るはずがないからです。 斉藤: だれもが納得できる生命観だと思います。 名誉会長: 仏界の生死 —- 妙法の信心を貫ききって死んだならば、どうなるか。大聖人の御書を拝したい。 遠藤: はい。「ただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくしにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん」(御書 p1480)。 〈ほどなく霊山に行かれたならば、太陽が出て十方の世界を見晴らすようにうれしく、「早く死んでよかった」と、お喜びになられることでしょう〉 須田: すごい御文です。一点の曇りもありません。「死」はもはや恐れるものではなく、「楽しみ」ですらある、と。 斉藤: このようにも言われています。「あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の縄を以つて八の道を界へり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり」(御書 p1386)。 〈何と素晴らしいことであろうか。法界は皆、寂光土で、瑠璃をもって地面とし、黄金の縄をもって八つの道をしきっている。天から四種類の花が降ってきて、空には音楽が聞こえ、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられるのである。我らも、その中につらなって遊びたわむれ、楽しむべきときが、間近になっている〉 名誉会長: 「生も歓喜、死も歓喜」です。大聖人は「一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし」(御書 p1430)とも仰せだ。 〈一仏乗の教えである法華経の羽の力で、寂光の空へも飛翔するであろう〉 三世にわたって、全宇宙を舞台に、「幸福の大空」を悠々と飛翔するのです。ゆえに、恐れなければならないのは「死」ではない。峻厳なる「因果の理法」を恐れなければならない。 よく生きた人は、よく死ぬ。そして、よく生まれてくる。悪く生きた人は悪く死ぬ。そして悪く生まれてくる。ギリシャの哲学者(アンティステネス)は「人間としてなしうる最良のことは何か」と問われて、「それは『幸せに死ぬこと』だ」と答えたのです。 Tweet