2015年1月31日 紙上座談会② 投稿者:京都乃鬼 投稿日:2015年 1月31日(土)09時41分29秒 通報 京都乃鬼新聞 紙上座談会② 2015-1-31 「三大秘法について」 編集長:教学部は「日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊はすべて(中略)等しく『本門の本尊』である。」と言っているが? 青鬼:教学部が言う日蓮大聖人の御図顕の御本尊とはどの範囲までを言うのかハッキリしない。 虹鬼:創価学会教学部は本格的に大聖人の御真筆の御本尊を調査研究した事があるのか?また、それを判断出来る眼力があるのか? 白鬼:眼力は全くない。山中喜八氏らの作った御本尊集によるしかない。今だって中尾氏やら寺尾氏やら立正大学系の学者に頼るほかない。どこまでいっても「他門流の日蓮研究家たちによって御真筆であると認定された御本尊」でしかないんだ。単なる追従でしかない。 青鬼:創価学会独自の判断として大聖人の御真筆と認めた御本尊が無い場合、「創価学会とは無関係の日蓮研究家たちによって御真筆であると認められた御本尊」が「創価学会の本門の本尊」になってしまうな(鬼笑) 赤鬼:そもそも権威ある日蓮研究家、学者たちは大石寺にある「弘安2年の板御本尊」を真筆とはしていない。しかし、教学部は「『本門の本尊』としては『弘安2年の御本尊』も含まれる」と言っているが、この矛盾にどう答えるのか? 紅鬼:今回の改正で創価学会は、書写した本尊も「本門の本尊」というが、書写形式というのも、門流によってもまちまちなんだ。日興門流の中でも、細かいところでは、必ずしも一致していない。どんな書写形式でも「本門の本尊」なんだろうか。まさか、大石寺門流の書写しか認めないとか(鬼笑)。 犬鬼:学者が関わっているんやから、そこらへんもハッキリ出来ひんのかと言いたいで!中途半端やで! 猿鬼:そんなん教学部にはムリやろ。 だいたいやがな、創価学会教学部及び執行部御用聞き学者達は、日寛教学を否定したしな! 編集長:それについて皆さんのご意見を頂きたい。 教学部は「今回の改正は、『魂の独立』から23年、世界広布の進展の時代的要請に応えるため」「(創価学会は)日寛教学を見直していく立場」との事だが? 紫鬼:創価学会教学部は「日寛教学の見直し」と言いながら、日寛教学否定の解説になっているのだが、これ自体、別に最新の仏教学の成果でもなく、創価学会教学部が新たに構築した「時代的要請に応える」ことでもなんでもないんだ。実は昭和30年代に日蓮系各派が散々、学会に言ってきた内容と全く同じなんだ。 白鬼:えっ?今の教学部は、昭和30年代に日蓮系各宗派の坊主、学者が学会批判の為に使った事と同じ事を言っているのか? 黄鬼:そうだ。実際、それを焼き直したと思えるほど古びた内容。古本屋で昭和の学会批判本を買って見てみれば、ほぼ同じ内容が書いてあるよ(鬼笑) 紫鬼:創価学会は、小樽問答などでこうした批判に徹底して反論してきた。池田先生ご自身がその先頭に立ってこられた。 今になって日寛教学に基づいた教義を変えるのは、牧口先生、戸田先生、池田先生の否定に繋がることではないか? 虹鬼:御用聞き学者達は元々池田先生を師匠と仰いでいるのか?三代との歴史の断絶が底意にあるのでは無いか?と疑いたくなる。 編集長:教学部解説では、会則変更以前における三代会長の発言についてこう言ってるが? 「僧俗和合時代の歴史的文脈で言われた発言も、その本質は大聖人の教え、精神と私たちを結びつけるためである。その真意を正しく捉えていくのは弟子の責務である」 虹鬼:では、教学部が言うその「弟子の責務」とやらの今回の教義変更は、三代会長の真意を正しく捉えていると言えるのか? 橙鬼:そや。原田会長はんの執行部及び御用聞き学者達とその教学部いう弟子がした今回の改正について、ワシらの先生はな、全く反応されてへんで! お認めになる発言も全く無いんやで! 虹鬼:私の情報では、昨年(2014年)8月、原田会長が会則改正の方針を池田先生に説明した際、先生から「大御本尊は否定しないんだよな」と念押しされてる。 桃鬼:しかし、今回の改正は、いわゆる大御本尊が「御本尊であること」は否定しないまでも「大御本尊であること」は否定している。しかも、そのうえで受持の対象から除外している。つまり「大御本尊は否定しないんだよな」との池田先生のご発言に対する否定となっているのだ! 白鬼:教学部が言う「弟子の責務での教義変更」ならば、その弟子の責任に置いて、教学部は全てについて答える必要があるな。 緑鬼:当然だ。執行部や教学部は一体何時、池田先生に指導を受けたのか? どう報告したのだ? また、先生から今回の教義変更についてのご発言が何故、聖教新聞に出ないんだ? 紫鬼:日寛上人は「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段上) 戸田先生は「われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺されてある。これは、弘安二年の十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年の十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです」(昭和30年8月24日、講演会「宗教と人生」) 池田先生は(日寛上人書写の御本尊授与が始まった際の指導)「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」(平成5年9月16日)と言われた。 黄鬼:明確な指導だな。 橙鬼:この師匠のご指導から20年。しかし、池田先生はご健在なんや。 ご健在の師匠の文言を「歴史的文脈」として終わらせようとする御用聞き学者達とその教学部と執行部諸君。 犬鬼:何故今、会則変更を含む教義変更が必要なんや? 師匠の文言を依文として説明して欲しいもんやで。 続く。 Tweet