投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 1日(火)18時59分55秒     通報
■ その人の「境涯」がどうか

名誉会長: まさに“相対性”だね。 ともあれ、その人が“何界”にいるかによって、見ている世界が違う。空間も、時間も、生命の受けとめ方がまったく違う。
—- 「境涯」の妙といってよい。この一点を見るのが仏法なのです。「人間」という存在を、人種によって見るのでもない。学歴で見るのでも、社会的地位で見るのでもない。その人の「境涯」そのもの、「生命」そのものを、まっすぐに見つめる。
権力者だから偉いのか。権力者にも餓鬼界、畜生界の人間もいる。庶民の中に菩薩界、仏界の人間がいる。
有名大学を出たから優秀なのか。ある人種だから優れているのか、ある階級の人は、はじめから劣っているのか。そうではない。しかし、人間をそういう邪見で見てきたのが、これまでの人類史です。それが、どれほどの悲劇を生んできたことか —- 。

須田: ナチズムや日本の国家主義、血で血を洗う階級闘争など、二十世紀の歴史はまさに、そういう邪見の悲劇でした。

斉藤: あらゆる残酷な「差別」も、そういう邪見・偏見の産物です。今の学歴主義などもそうでしょう。

名誉会長: 仏法の十界論は、あらゆる人を、その「境涯」で見る。だから平等なのです。財産のある人でも、貧しい人でも、今の一瞬が「地獄界」の苦しみにあえいでいれば、同じだからです。そして、あらゆる人の中に「仏界」の可能性を見て、それを開いていこうという慈悲が十界論の眼目です。
その真髄が寿量品なのです。一度、この境涯論の観点から「十界」について語り合ってはどうだろうか。

斉藤: はい。会員の方々からも「友人との仏法対話で、十界論を分かりやすく語れる教材がほしい」との要望が寄せられています。
■ 「浦島太郎」を十界論で読むと

須田: “ウラシマ効果”の話が出ましたが、「浦島太郎」の物語は、十界論を学ぶ、よい入りになるのではないでしょうか。

名誉会長: なるほど。日本人ならだれでも知っている昔話だからね。これを十界論で見ていくと、どうなるだろうか。

遠藤: そうですね。 —- 物語は、漁師の浦島太郎が、浜辺でカメをいじめている少年たちに出会うところから始まります。
カメをいじめている少年たちの境涯は、十界で言えば「畜生界」でしょうか。「畜生の心は弱きをおどし強きをおどし強きをおそる」(御書 p957)ですから。

須田: なるほど。いじめられているカメは「地獄界」ですね。浦島太郎は、少年たちにお金をやって、カメを助けます。この太郎の振る舞いなどは「菩薩界」の一分でしょうか。お金をもらって言うことを聞く子どもたちは「餓鬼界」かも知れません。

遠藤: カメはその恩義を忘れず、数日後に浦島さんのもとへ訪ねてぎます。そしてお礼に、太郎を背中に乗せて竜宮城へ案内するわけです。

斉藤: 恩を忘れず、恩に報ずる —- これは「人界」ではないでしょうか。報恩は人間らしさの証です。

名誉会長: カメなのに「人界」なんだね(笑い)。

斉藤: はい。人間でも恩知らずは畜生以下になってしまいます。開目抄には「畜生すら猶恩をほうず」(御書 p204)として、報恩の大切さを教えられています。

須田: 竜宮城では、太郎は乙姫に歓待され、飲んだり踊ったりして楽しく暮らします。これは断然、「天界」ですね(笑い)。
ちなみに、この「竜宮城」というのは、法華経の提婆達多品(第十二章)に出てくる海底の「娑竭羅龍宮」など、仏典の影響があるのではないかと言われています。