投稿者:KS部OB    投稿日:2015年 8月22日(土)11時38分42秒     通報
【創立記念日最高協議会】(2006・11・18)

晴れ晴れと、大勝利に輝く、学会創立76周年、本当におめでとう!(大拍手)
日本全国、そして、全世界190力国・地域の誇り高き全同志とともどもに、「創価学会の万歳」を、「創価学会員の万歳」を、そして「創価の師弟の万歳」を、天高く叫びゆく思いで、私は「創立の日」を迎えた。
多くの識者や友人の方々も、深き真心で、この日を祝賀してくださっている。あらためて、心より御礼申し上げたい(大拍手)。
今朝(18日)、晴れわたる青空を見つめながら、句を詠んだ。
全同志に、感謝を込めて贈らせていただきたい。

晴天に  我らも同じく  創立日

天 晴れて  万歳ゆれゆく  三色旗

学会は、原田新会長を中心に、勢いよく新出発した。
いよいよ、広布の新時代である。
新任の全リーダーに、「頑張れ!勝ちゆけ!」とエールを送りたい。
いにしえのローマ帝国の名君として名高い皇帝に、ティトゥスがいる(西暦39~81年)。情け深く、公平な皇帝であった。
この皇帝は、市民たちの要望には、できうる限り応え、誠心誠意、尽くしていった。
どんな人にも希望を持たせて帰すという主義を、頑固なまでに貫き通したと伝えられている。
いわんや、創価のリーダーは、わが同志に、必ず「前進の希望」を贈っていく、必ず「勝利の勇気」を贈っていく ── そういう聡明な「慈愛」と「智慧」と「確信」の励ましをお願いしたい。

西暦79年、あのボンペイが壊滅したヴェスヴィオ火山の大噴火が起こったのは、この皇帝の治世であった。
皇帝は、被災地に駆けつけ、陣頭指揮を執り、救助活動に奮闘した。
学会精神と同じである。
近年も、日本、さらに世界の各地の災害の際に、わが創価の友が、どれほど崇高な献身を果たしてこられたことか。
今も、復興の戦いを続ける友がおられる。私も妻も、真剣に題目を送り続けている。
この皇帝は、ローマで大火災が起こった際も、迅速に現地へ向かった。そして、私財をなげうって復旧に尽力した。
疫病が流行したときも、懸命に手を尽くした。
その姿は「単に皇帝という立場からだけでなく、人の親にもまさる愛情を示した」(デュラント著、大月邦雄訳、秀村欣二監修『世界の歴史 第8巻』日本ブック・クラブ)と謳われている。
彼の善政は、長く人々の記憶に残った。後に、天才モーツァルトは、オペラ「皇帝ティトゥスの慈悲」を作曲している。
この皇帝ティトゥスの有名な逸話がある。
それは、ある晩のこと。皇帝は、その日に限って、だれにも何も与えていなかった。
それを思い出し、こう語ったというのである。
「諸君、私は一日を無駄にしてしまった」(スエトニウス著、国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(下)』岩波文庫)と。
たとえ1日に一人ずつでも励ましていけば、1年たてば、365人。30年では、1万人を優に超える。
御聖訓には「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(御書955ページ)と仰せである。
皆さま方も、1日また1日を丁寧に、そして一人また一人を大切に、「人間皇帝」として、悔いなき行動の歴史を残していただきたい(大拍手)。

釈尊が法華経「本門」の寿量品を説き始めたのは、何歳の時であったか。
日寛上人は、「観心本尊抄文段」で、それは「76歳」の時であったと洞察されている。
わが創価学会は、創立76周年を迎えた。
いよいよ、これからが「本門」の時代であるとの決意で進んでまいりたい。
これが、「現当二世」「本因妙」の日蓮仏法の実践者であるからだ。
法華経の「迹門」から「本門」への大転換。それは、何によって告げられるか。
ご存じの通り、「地涌の菩薩」の劇的な登場である。
「この多くの人々は、私が入滅した後において、よく、この経を護持し、読誦して、広く説くであろう」
この釈尊の大宣言とともに、娑婆世界の三千大千の国土が揺れ動いて、無量千万億の地涌の菩薩が涌出したのである。
皆、金色に輝き、無量の光明を放っていた。無数の眷属を率いて躍り出てきた。
わが創価学会も、今、数多くの新しい指導者群が、法華経の絵巻さながらに登場する時を迎えた。
私は、この「時」を祈り、待ち、創ってきた。

「地涌の菩薩」たちの釈尊との対話の第一声は、何であったか。
それは、大師匠である釈尊への最大の尊敬と感謝と、そして気遣いの言葉であった。
すなわち、地涌の菩薩の4人のリーダーである「上行」「無辺行」「浄行」「安立行」の四菩薩が、師・釈尊に合掌して、あいさつした。
「世尊(=釈尊)よ、少病少悩であり、安楽に行じておられるでしょうか。
世尊が、今、救おうとされている者たちは、たやすく導くことができるでしょうか。
世尊を疲れさせてはいないでしょうか」
師匠がご無事であるか、お疲れではないか ── ただただ師を思う、弟子の一念から、地涌の菩薩の行動は始まったのである。
釈尊は答えた。
「決して疲れてはいない」「この諸の衆生は、過去世以来、私の化導を常に受けてきたのである。皆、私の教えを聞いて、仏の智慧に入ったのである」と。
弟子の心遣いに〝大丈夫だよ。心配することはないよ。必ず、皆を幸福にしてみせるから〟と応えられた大音声である。
それを受けて、地涌の菩薩は述べる。
「素晴らしいことです。偉大な英雄であられる世尊よ。私たちは随喜します」と。
そして釈尊もまた、「素晴らしいことだ」と地涌の菩薩たちを讃える。
法華経の涌出品第15は、まさに一幅の名画のような、師弟の対話の世界でもある。
「迹門」とは一変した、法華経の「本門」の世界である。
師に甘え、師に護られ、師に励まされてばかりいる弟子であっては、悪世末法での広宣流布はなし得ない。
師に仕え、師を護り、師を宣揚していく真実の弟子として立ち上がっていくのだ。
創価の師弟の真髄も、ここにある。

戸田先生にお仕えし抜いた青春は、私の最大の誇りである。後悔など、微塵もない。
今も日々、戸田先生のことを思い出す。
偉大な先生だった。
口やかましい先生だった。
弘教が進まず、イライラされることもあった。
先生が第2代会長に就任された翌年、昭和27年のことである。
全国に十数の支部があった。1カ月の折伏は、多い支部でも100世帯前後しかいかない。
「これでは広宣流布は何千年もかかるな!」
先生は言われた。
「大作、立ち上がれ!」
「わかりました!」
私は即座に申し上げた。
東京・蒲田の支部幹事として、月に201世帯の弘教を成し遂げた。
限界を超えるこの闘争が、広宣流布への新しい突破口となったのである。
最も大変なとき、戸田先生は、いつも私を頼みにされた。
私は文京で戦った。大阪にも飛んだ。中国の山口も開拓した。
ダーッと音を立てるように、勝利の波を巻き起こした。
昭和31年の大阪の戦いは、〝絶対に勝てない〟と言われていた。しかし私は、先生の命を受け、厳然と指揮を執った。
劣勢をはねかえし、「〝まさか〟が実現」と言われる、痛快な勝ち戦をやり遂げたのである。

大発展する学会に牙をむく、権力の魔性との戦いにも、私は全身全霊を捧げた。
北海道の夕張炭労との人権闘争。そして、無実の罪で投獄された「大阪事件」。
戸田先生と学会を、断じて守る。指一本、差させてなるものか ── こう心に決めていた。
大阪事件の裁判では、判決の前、担当の弁護士たちから、「あなたは有罪です。そのつもりでいてください」と言われた。
これが正義と人権を守るべき者の言葉であろうか。
「私は潔白です。断じて無罪を勝ち取ってみせます」と言い切った。
相手は国家権力である。状況は厳しかった。
しかし、絶対に負けるわけにいかない。何より、そもそも冤罪である。
私は、検察側の嘘を、明快に打ち破った。
判決のその日、裁判長は宣言した。
「池田大作は無罪!」
最初から、無実であることは明白な事件だった。私を陥れるため、学会を攻撃するために仕組まれた、卑劣な迫害であった。
ともかく、私は、断じて師を守り抜いた。これが、創価の師弟の真実の歴史である。

さて、「地涌の菩薩」について、釈尊は、高らかに言い放った。
「私は久遠よりこのかた、これらの大菩薩を教化してきたのである」
そして、釈尊は、この本門の弟子たる「地涌の菩薩」の登場によって、自らの久遠の生命を明かし、その本地を満天下に示していくのである。
法華経では、「地涌の菩薩」のことが、次のように説かれている。
「志が固い」
「偉大な忍耐の力がある」
「人々が見たいと願う存在である」
「常に法を願い、一心に精進して、無上の仏の智慧を求める」
「菩薩の道を学び、蓮華が泥水に染まらずに咲き薫るように、濁世にあって世俗に染まらない」
「種々の法を説いて、畏れる心がない」
「難問答に巧みである」
「姿が端正で、威徳がある」
「十方の仏から讃えられる」
── これが、地涌の菩薩の姿である。

私どもが、これまで何度も拝してきた「諸法実相抄」には、明確に、こう仰せである。
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩であろう。地涌の菩薩であると定まったならば、釈尊の久遠の弟子であることは疑う余地がない」
「末法において妙法蓮華経の五字を弘める者に、男女の分け隔てはない。皆、地涌の菩薩の出現でなければ、唱えがたい題目なのである」(御書1360ページ、通解)
妙法を唱え、大聖人の御遺命である広宣流布のために行動する学会員の皆さま方こそ、まさしくこの「地涌の菩薩」にほかならない。
私たちの唱える題目は、ただわが身の平安のみを願い、漫然と唱える題目ではない。
広宣流布のための題目である。悪と戦うための題目である。
勇んで三障四魔と戦い、悪口罵詈を粉砕する。その行動がなければ、どれほど題目をあげても成仏はできない。
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(同1056ページ)と仰せの通りである。
戸田先生は、「地涌の菩薩」としての自覚を、繰り返し私たちに教えられた。
「我ら学会員こそは『地涌の菩薩』である」
「広宣流布は、地涌の菩薩でなければ絶対にできない」
「われわれが地涌の菩薩として、どれほど尊貴であり、使命があるか。この使命に生ききることが最高の人生である」
まさしく創価学会こそ、「地涌の菩薩」が現代に出現し、結集した、仏意仏勅の団体なのである(大拍手)。

さらに戸田先生は、厳然と言い切られた。
「学会員は皆、偉大な使命をもって生まれた。怠惰や臆病な人間などはいてはならない。広宣流布のために戦う地涌の菩薩であるからだ」
「何があろうと、私は必ず勝つ。何よりも大事なことは、大聖人御遺命の広宣流布だ。一日も遅らせてはならない。創価学会こそ、その御遺命を達成する唯一の団体なのだから。
われわれの使命は実に素晴らしいではないか。法のため、広宣流布のために戦う地涌の菩薩なのだ」
創価学会の「創立の心」 ── それは、この「地涌の菩薩」の誉れ高き使命と力を自覚することなのである。
自分を卑下したり、人を羨んだりする必要など、まったくない。
わが生命の奥底には、尊貴なる地涌の生命が脈動しているのである。深き誓願の祈りと、勇敢な行動で、その清らかで力強い生命力を「涌出」させていくことだ。
「この世で果たさん使命あり」(「人間革命の歌」の一節)である。
皆さまは、一人残らず、尊い使命を持って、この地球に生を享けた。
新しい創価学会の大建設は、この「地涌」の大生命の躍動から始まると申し上げたい。
大聖人は「男女はきらふべからず」(同1360ページ)と仰せである。私どもは、今まで以上に、婦人部・女子部を尊敬し、大事にしてまいりたい。
戸田先生は、よく言われていた。
「婦人部こそ、学会の原動力である」
「女性こそ、広宣流布の前駆たれ!」

学会創立の日、1930年(昭和5年)の11月18日」。
じつはこのころ、牧口先生は難の渦中にあった。
当時、牧口先生は白金尋常小学校の校長であられた。同校を東京で五指に入るほどの名門校に育て上げられたのは、牧口先生のご功績であった。
しかし、その大功労の先生を妬み、憎む勢力が結託して、先生を排斥しようとしていたのである。それは、学校を監督する役人や、一部の政治家、他校の校長などであったという。
牧口先生は、決して権威におもねらない、信念の大教育者であったため、権力を持つ連中は、自分たちの思い通りにならぬ先生を、なんとか排除したいと考えていたようである。
この企みに断固として立ち向かい、師・牧口先生を厳然とお護りし抜いたのが、弟子・戸田青年であった。

戸田先生は、その模様を描いた文章を残している。
当時30歳0若き戸田先生は、時習学館を経営する激務のなか、牧口先生を慕う父母会や、各界の実力者などにも働きかけ、正義の牧口先生をお護りする手を打っていった。
ちなみに、牧口先生の大著『創価教育学体系』は、戸田先生が自ら志願し、編集・発刊の一切に携わった。この時、その題辞(=本の巻頭に記す言葉)を、時の政友会総裁であった犬養毅氏(=のちの首相)に依頼したのも戸田先生である。
そのようにして戸田先生は、敵たちが容易に手を出せないような城壁を、牧口先生の周囲に固めていった。
それは、陰謀を企てる連中に「戸田さえいなければ」と言わしめる、師子奮迅の戦いであった。
牧口先生を追い落とそうとする勢力は、牧口先生を辞めさせることが不可能とわかると、卑劣なやり方で他校に転任させた。
師をお護りする戸田先生の闘争は、それ以後も人知れず続けられた。
『創価教育学体系』第1巻発刊の2年後、牧口先生は校長を退職されたが、その際、最高の待遇となるように陰で布石を打ったのも、戸田先生だったのである。
大校長として、晴れ晴れと有終の美を飾られた牧口先生のお姿を、退任の宴の席で、戸田先生は万感の思いで見つめていた。
その真情を、先生は「人に見せまいとする涙を幾度ふいた事であった事か」と記されている。

牧口先生・戸田先生の師弟による学会創立から20年後の1950年(昭和25年)の11月 ── 。
戦後、牧口先生の不二の弟子として、学会再建のすべてを担ってこられた戸田先生は、自らの事業の苦境のため、学会の理事長職を辞任された。
莫大な負債を抱え、絶体絶命とも言える状態に陥った先生は、この時、牢にも入り、命をも捨てる覚悟であった。
そして、22歳の私は、先生の弟子として、すべてを捧げてお仕えしゆく覚悟であった。
戸田先生が直面しておられる一切の試練に打ち勝って、先生に断じて第2代会長に就任していただこうと深く決意していた。
そのために、先生の事業の重責を一身に背負い、阿修羅のごとく戦い抜いた。あらゆる攻撃の矢面に立ち、先生の防波堤となった。
苦手な仕事も体当たりしてやり切った。無認識の報道を何とか食い止めようと、新聞記者との渉外にも当たった。
多くの人が先生のもとから去った。口を極めて罵る者もいた。しかし私はただ一人、戸田先生こそが広宣流布の大師匠であられることを、訴え、叫び抜いていった。
戸田先生が「聖教新聞の発刊」の構想を私に語られたのも、「創価大学の設立」の夢を私に託されたのも、この最大の苦難の最中であった。
その一切を、私は、師の心のままに実現していった。それは、皆さまがご存じの通りである。
いずれにせよ、この苦難の中の大闘争がなければ、今日の学会はなかった。

1951年(昭和26年)の5月3日、ついに戸田先生は、第2代会長に就任した。
先生の晴れ姿を見つめる私の喜びは、かつて牧口先生をお護りし抜いた、若き戸田先生のお心と同じであった。
師を厳護するために、断じて弟子が勝つ。これが、創価学会の創立の歴史に刻まれた魂である。
創価三代の師弟の道である。
〈牧口初代会長、戸田第2代会長、池田第3代会長のもとで戦った小泉隆理事長は、生前、こう語っていた。
「戸田先生は牧口先生を抱きかかえるようにして、守り仕えておられた。
そして、池田先生は、その戸田先生を抱きかかえるようにして、守り支えておられた。
それが、三代の師弟不二だ」〉

私は、戸田先生から、「師弟不二」の魂を受け継いだ。
先生のもとで、ありとあらゆる訓練を受けた。
広布の指導者として、一から十まで手を打てる力をつけてくださった。
その訓練が、どれほど真剣だったか。どれほど厳しかったか。
恵まれた環境に甘えて、峻厳な学会精神を忘れるようなことがあってはならない。
短命と言われていた私が、現在もこのように健康で広布の指揮が執れるのも、先生の薫陶のお陰であると感謝している(大拍手)。

戸田先生は、私という弟子がいることに、心から安心しきっておられた。
何かあると「大作!」「大作!」と、すぐに私を呼ばれた。
また、ほかの人々にも、「全部、大作に聞け」と言われていた。
師弟は一体である。師弟とは、親子以上の深い深い絆なのである。
戸田先生の苦しみは、私の苦しみだった。戸田先生への攻撃は、私への攻撃だった。
ゆえに私は、マスコミなどが戸田先生の悪口を書いたときは、じっとしていることができなかった。
どんなところにも、ただちに足を運び、相手の誤りを正し、真実と正義を訴えていった。
師匠が悪口罵詈を浴びているのに、何も感じない弟子は、弟子の名に値しない。
人ごとのようにとらえ、ひそかに笑っている人間がいたとしたら、それは提婆達多と同じである。
いかに大勢の弟子がいても、師匠と一体で苦楽を共にする「不二の弟子」がいなければ、あまりにも情けないことである。
そんな世界は、創価学会の世界ではない。
「仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや」(御書293ページ)と仰せのごとく、「恩に報いる」のが仏法の世界である。
ずるい人間は、学会の幹部ではない。戸田先生の弟子でもなければ、大聖人の門下でもない。
「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(同1282ページ)との御金言を胸に刻みたい。
三障四魔と戦い、三類の強敵と戦った人にこそ大功徳が燦然と輝く。
「勇猛精進」「死身弘法」こそ、創価学会の魂である。私は、この精神に寸分違わず戦い抜いてきた。
「勇猛精進」の師子ありてこそ、多くの同志が功徳を受けられる。
「死身弘法」の人がいなくなれば、学会の未来はない。広布の未来も、人類の希望も閉ざされてしまう。
わが弟子たちよ、今こそ勇敢に戦え! 「創価の師弟」の力を満天下に示せ!
76周年の「創立の日」にあたり、私はそう叫びたい。

人類にとって、「最大の脅威」は、どこにあるのか。
「私は、それは『人間の心』にあると思ってきました。
そしてまた、『最大の希望』も、『人間の心』にあるのです」
こう語るのは、インドの人権の闘士、ラダクリシュナン博士(国立ガンジー記念館前館長)である。
現在、私は、マハトマ・ガンジーの魂を受け継ぐ博士と対談を続けている。〈月刊誌「灯台」で連載中〉
そのなかで、青年への期待をめぐって大いに語り合った。
博士は、こう述べておられた。
「『青年に何の役割も与えない』世界にあって、SGI(創価学会インタナショナル)には、すばらしい青年の成長の場がある。自己変革の場がある。
『新しい価値を創造する運動』とは、まさしく『生命を変革する戦い』なのです「
「池田会長とともに、未来を担う青年たちの心に、大いなる『希望の種』を蒔き、育てる戦いができることを、私は心から幸せに思っております」
青年を信じる。
友達として、また、きょうだいのように、そして、わが子以上に、青年を大事にする。
そこに人材育成の要諦があると私は思う。
ともあれ、仏意仏勅の創価学会が、威光勢力を増しながら、使命ある若き人材群を絶えず育てていくこと ── それが、世界の希望なのである。
いよいよ青年部、未来部の育成が、最重要の焦点となってきた。
このたび、新たに「夫来本部」も設置された。私も、これまで以上に、若き友の育成に力を入れていく決心である(大柏手)。
〈ラダクリシュナン博士は、こうも語っている。
「若者の幸福を願い行動される池田会長の献身ぶりは、無比であり、他に肩を並べる人はいません。若者の潜在能力を見出し、未来を勇敢に切り拓いていくよう励まされる会長の献身的な姿に、私は啓発を受けております」
「私は池田会長から、人生で、本当に『戦う』ということがどういうことかを教えていただきました。戦う命、戦う活力をいただきました。
偉大な目的のために戦う。正義のために戦う。それこそが、人生に大いなる喜びをもたらします」
「現代世界にあって、世界中の多くの人々に勇気を与え、希望を与え、目的を与えておられるのが池田会長であり、SGIです」〉

日蓮大聖人が、広宣流布を永遠たらしめるために、青年の育成に、どれほど力を注がれたか。
その一人が、南条時光である。
南条時光が、大聖人に初めてお会いしたのは、まだ幼少のころだったといわれる。その時光の成長を、大聖人は、じっと見守っていかれた。
真実の弟子の道を貫いた時光の生涯は、難の連続であった。
地頭として活躍した父を幼くして亡くし、ともに信仰に励んだ最愛の弟も10代の若さで失った。
また、信仰ゆえに、さまざまな迫害や中傷を受けた。幕府からも不当に多くの課税を強いられ、貧窮生活を余儀なくされたこともあった。
権力の圧迫による辛苦、愛別離苦、経済苦、病苦……たたみかける苦難に、時光が断じて屈しなかったのは、ひとえに大聖人の慈愛あふれる叱咤激励のゆえであった。
大聖人は時光に「難を乗り越える信心」を繰り返し教えられ、「師子王の心」を打ち込まれた。
時光に与えられた御書には、こう仰せである。
「あなたが大事と思っている人たちが信心を制止し、また大きな難がくるであろう。そのときまさにこのこと(諸天の守護)がかなうに違いない、と確信して、いよいよ強盛に信心に励むべきである」「くれぐれも人の制止があったならば、心にうれしく思いなさい」(御書1512ページ、通解)
「どんなことがあっても嘆いてはならない。きっぱりと思い切って、所領などについても(自分の思いと)相違することが起こったならば、いよいよ喜ぶべきことであると思い、そう言い切って、ここへおいでなさい」(同1542ページ、通解)
さらに、時光の家に病人が出た時には、こう力強く励ましておられる。
「あなたの家の内に、病気の人がいるというのは、まことでしょうか。(もし、それが本当であったとしても)よもや鬼神の仕業ではないでしょう。十羅刹女が、信心のほどを試しておられるのでしょう」「釈迦仏、法華経に虚妄はあるはずがないと深く信じていきなさい」(同1544ページ、通解)
何も心配はいらない。大変なことがあるからこそ、信心が鍛えられる。絶対に負けてはいけない。信心が強ければ、最後は必ず幸福になるのです ── そうした大聖人の御心が、胸に響いてくる。
青年には「確信」と「勇気」を与えることだ。「希望」の未来を示すことである。

こうした大聖人の御指南を受けて、時光は「熱原の法難」の際も、20歳ほどの若さで矢面に立って戦い、勇敢に外護を貫いた。
法難の最中、大聖人は時光に仰せである。
「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(同1561ページ)
「ともかく、死は必ず訪れるものなのである。そのときの嘆きは、現在の苦しみと同じなのである。
同じく死ぬのであるならば、かりにも法華経のために命を捧げなさい。それこそ、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものであると思いなさい」(同1561ページ、通解)
同じ一生であるならば、広宣流布のために命を捧げよ! ── 大聖人の烈々たる叫びである。
「師の心」 ── それは「広宣流布への大願」である。この「師の心」に「わが心」を一致させていくことこそ、仏になる道なのである。
「師の魂」 ── それは「不惜身命の行動」である。この「師の魂」と同じ魂で行動していくことこそ、広宣流布を成就する道なのである。

大聖人の最晩年、まだ20代だった時光が重い病に倒れた。
大聖人は、御自身の御病体をおして、時光の病気の平癒を願い、激励の御手紙を認められた。
若き門下を苦しめる病魔を打ち破り、時光を蘇生させていかれたのである。
時光は、御本仏の大慈大悲に包まれて、その後、50年も寿命を延ばすことができた。
大聖人の御入滅後、五老僧らが、ことごとく違背していくなかにあって、日興上人を厳然とお護りし抜いて、令法久住の大道を開いたのが、この南条時光であった。
一人の青年を励まし、育てていく。青年の育成に手を打つことは、50年先までの手を打つことに通じる。
未来部を育てることが、学会の未来を育てることである。
青年部を伸ばすことが、広宣流布の前進・勝利を伸ばすことである。
座談会運動をはじめ、ありとあらゆる機会を通して、一人一人の若き宝の人材を薫陶してまいりたい。
また、この席をお借りして、21世紀使命会、未来部育成部長、学生部の進学推進部をはじめ、育成に当たってくださっている皆さま方に、心から感謝申し上げたい(大拍手)。

私が拝受した世界の大学・学術機関からの200の名誉学術称号の第1号は、ご存じのように、モスクワ大学である。
その名誉称号受章者には、ゲーテ、シラーら、歴史に輝く錚々たる知性の名が並ぶ。
イギリスの大生物学者ダーウィンも、その一人である。
1859年の11月24日、「進化論」を体系づけたダーウィンの主著『種の起原』が、ロンドンで出版された。
近代社会に巨大な影響を与えた本として、あまりにも有名である。
1990年、東京富士美術館で、オックスフォード大学の〝冠上の宝石〟と謳われる「ボドリーアン図書館」の重宝展が開催された。
その際、貴重な『種の起原』の初版本も展示されていた。
私は深い感慨を覚えた。『種の起原』は、10代のころに読んで、ノートに書き留めた、思い出深い一書だったからである。
あの人類史に輝く大科学者ポーリング博士も、
すでに9歳の時に、『種の起原』を読んでおられたという。ダーウィンの「進化論」も話題にしながら、博士と「生命の起源」について意見を交わしたことが懐かしい。
ところで、『種の起原』は出版されるや、大きな反響を呼び、たちまちベストセラーとなった。
同時に、古い世界観を打ち破る「進化論」を唱えたダーウィンに対して、各界から猛烈な攻撃が始まったのである。
真っ先に攻撃してきたのは、だれであったか。
敵は身近にいた。
それは、ダーウィンの友人の古生物学者だったのである。
かつてダーウィンは、この古生物学者のことを悪く言う人から、彼を弁護してあげたこともあった。
ダーウィンは自伝の中で綴っている。
「『種の起原』出版の後に、かれは私のにがにがしい敵になった。それは私たちのあいだのどんないさかいによるものでもなく、私が判断できるかぎりでは、その書物の成功にたいする妬みからであった」(八杉龍一・江上生子訳『ダーウィン自伝』筑摩書房)
人間の心は恐ろしい。
嫉妬とは何か。
邪悪の本性であり、誹謗の元凶である。
裏切りの原因であり、分裂の理由である。
釈尊に反逆した提婆達多の本性も「男のやきもち」だったと、戸田先生は喝破されていた。ゆえに〝嫉妬の反逆者とは、断じて戦い抜け! 〟と叫ばれた。
奥底の一念ですべてが決まる一、戦時中、軍部権力によって学会は弾圧を受け、多くの最高幹部が投獄された。
牧口先生は、最後まで信念を貫かれて獄死。戸田先生は2年間の獄中闘争を戦い抜かれた。
だが、牧口先生、戸田先生以外は、次々と退転してしまった。
そのうちの一人に、ある大学の教授がいた。奥さんに〝早く出てきてほしい〟と懇願されて、退転した。
戸田先生は〝こいつは師匠を裏切った! 学会を裏切った ! 〟と言われ、絶対に許そうとはしなかった。それはそれは、すさまじい怒りだった。
時には「そこまでしなくても」というほどまで、徹底してその裏切りを責め抜かれた。これが本当の慈悲なのだ ── 先生は、そう語っておられた。
また戦後も、最高幹部でありながら信心を忘れ、ついには反逆した人間が出た。
〝こんな輩を放っておいたら、学会は大変なことになる !〟 ── 戸田先生は、そう叫ばれて、断固として糾弾された。
その後、第1次宗門事件の時にも、嫉妬に狂い、大恩ある同志を裏切って学会に弓を引く人間が現れた。
卑劣なデマを垂れ流し、尊き学会の師弟の絆を分断しようと画策した悪人がいた。その罪は重大である。
残念ながら、こうした悪を見て見ぬふりをして、傍観を決め込む幹部もいた。
大切なのは〝奥底の一念〟である。心の奥の奥で何を考えているかだ。
本当に師匠のため、学会のために戦おうと決めているのか。
表面だけ繕って、結局は自分のことだけを考えているのか。
その差は、あまりにも大きい。

嫉妬がはびこる組織・社会は、濁り乱れる。絶対に発展しない。
中国の古典『楚辞』に「世は乱れ濁って、善悪の筋目も分かれず、人々は好んで他人の善美を蔽いかくしてねたみにくむのである(世は溷濁して分かれず、好んで美を蔽ひて嫉妬す)」とあった。人の讒言で楚の国存遠ざけられた屈原の憂いである(『楚辞』星川清孝訳、明徳出版社)。
わが学会には、陰湿さや嫉妬、裏取引や陰口など絶対にあってはならない。
学会は、明るく、清々しい、晴れ晴れとした異体同心の世界である。
御書には「松が栄えれば柏は悦ぶ。芝が枯れれば蘭は泣くといわれる。非情の草木すら友の喜び、友の嘆きは一体である」(934ページ、通解)と仰せである。
いわんや、広宣流布という無上の大目的へ進みゆく創価の同志の絆は、何ものにもまして強い。
美しい友情と同志愛の世界が、学会の世界なのである。
怨嫉は、自らの福運を消し、和合僧を撹乱してしまう。厳重に戒めていくことだ。
この学会精神を、永遠に忘れてはならない。
ともあれ、学会の永遠の発展のために、悪人は絶対に許してはならない。叩き出していかねばならない。きょうは、このことを改めて確認しておきたい(大拍手)。

ダーウィンは終生、社会の「賞讃」と「非難」を浴びた。
研究で「成功」と「失敗」を重ねた。
しかし、彼は何があろうと、自分に言い聞かせた。
「私は、できるだけ一生懸命に、できるだけよくやったのだ。だれもこれ以上にはできない」と(前掲『ダーウィン自伝』)。
そして綴っている。
「私は、自然科学にわずかの貢献をすること以上によい生涯を送ることは自分にはできないと考えた」
「これを私は、私の能力の限りをつくして実行してきた。
批評家は好きなことを言うかもしれないが、かれらが、私のこの信念をくずすことはできない」(同)
たとえ嫉妬の人間にいじめられても、負けない心があれば、絶対に成仏の軌道を歩み抜ける。私は、この真実を戸田先生から教わった。そして、恩師の教えのままに実践してきた。これが私の誇りである。
実は、彼は、長年にわたり、人知れず病に苦しみ続けた。ダーウィンの息子は、「彼の生涯は、病気の苦悩困憊に対する一の永い戦闘であったのである」と証言している(F・ダーウィン著、小泉丹訳『チャールズ・ダーウィン』岩波文庫)。
彼の研究は、まさに身を賭しての戦いであった。ダーウィンは、誇らかに断言している。
「科学に関して成就し得たところのものは、一に、永き熟慮、忍耐、努力によるものである」(同)
彼は、悪戦苦闘を続けながら、毅然と、粘り強く、青春時代に決めた使命の道を、前へ前へ歩み続けた。
そして、彼の学説は、科学史上、最も革命的な思想として評価されている。

人間にできること。それは「ベストを尽くす」ことである。今の自分、今の境遇で、自分らしく、毀誉褒貶の風に流されず、全力を尽くす。真剣に戦う。それを誇りとして、朗らかに進むことだ。
その繰り返しが、勝利の人生である。
イギリスの歴史学者トインビー博士も、学生時代、厳しい重圧に押しつぶされそうになった時、両親から言われた「ベストを尽くせばいいんだ。それ以上のことは誰にもできはしない」という一言に、どれほど救われたかと振り返っておられる(山口光朔・増田英夫訳『回想録1』オックスフォード大学出版局)。
また、同じくイギリスのサッチャー元首相も、父の教訓である「ベストをつくせ。たとえ失敗しても、もう一度トライせよ。そして再びベストをつくせ」との一言が入生の支えとなった、と言われていた。

ダーウィンは晩年、自伝を書き残している。
その中で、自らの生涯を回想しながら、ひときわ深い感謝を捧げた人物がいる。
それは、母校ケンブリッジ大学の恩師ヘンズロー教授であった。
「自分の一生の経歴に他のなにごとにもまして大きな影響を与えた」ものは、「ヘンズロー教授との親交である」というのである(前掲『ダーウィン自伝』)。
ある時は教授の自宅で、ある時は外を歩きながら、若きダーウィンは、毎日のように教授と対話を重ね、植物学、化学、鉱物学、地質学など、多くの学問を吸収した。
また、ダーウィン青年は、教授の博識だけでなく、その人格に深く打たれた。
ダーウィンが新たな理論を打ち立てる土台となった「ビーグル号」の旅も、このヘンズロー教授が勧めてくれた。
ダーウィンは、恩師への深い感謝と尊敬を込めて、やむにやまれぬ思いで、こう記し残していったのである。
「かれの道徳的資質は、あらゆる点にわたって、りっぱなものであった。
かれは、虚栄心やその他のちっぽけな感情をこれっぽっちも持ち合わせてはいなかった。
私は、かれほど自分自身のことや自己の利益をかえりみない人をいまだに見たことがない」
「かれは、なにか邪悪な行為があると、それによって激烈な義憤にかりたてられてすぐに行動することがあった」
「ヘンズローの博愛心には際限がなかった」(同)
若き日に、慈悲と知性を兼ね備えた、正義と無私の人物に出会う。これほど、幸せなことはない。
心から感謝を捧げる恩師がいる。
誇り高く宣揚できる恩師がいる。
それは、幸福な人生である。
また、恩師の名を不朽のものにする教え子がいる。それこそ、「師弟ともに勝利」の人生である。

ダーウィンが青春時代に愛読した桂冠詩人に、ワーズワースがいる。
ワーズワースは、ダーウィンの40年ほど前に生まれ、ケンブリッジ大学の先輩に当たる。
ワーズワースは謳った。
「未来にむかって大いなる展望を与えてくれるような / 高所に立てば、時折、風が激しく吹きぬけても、/ 一向に気にならないものなのだ」(岡三郎訳『ワーズワス・序曲』国文社)
新しい出発をした今こそ、大いなる勝利への展望をもち、先手を打っていきたい。
なかんずく、人材の育成には、手を緩めてはならない。
学会青年部も、いよいよ本格的に、師弟直結の「新しい人」「新しい力」を育てなければならない。本格的な訓練を受けていない者がリーダーになれば、皆が不幸である。

その淵源は12世紀に遡るといわれる、世界の名門ケンブリッジ大学。私も創価大学を創立して間もなく、訪問した。懐かしい思い出である。
ワーズワースは、創立から600年近くを経た、18世紀後半にケンブリッジで学んだ。
彼は、「賢明にして正しい人々」が「創始者の精神」を重んじ、さらに、偉大な弟子たちを教え薫陶していった母校の歴史を詩に謳いあげている(五十嵐美智訳「1847年7月、アルバート殿下のケンブリッジ大学名誉総長に就任されるに際しての頌歌」、『回想の時間 ワーズワス空想の詩篇・その他』所収。晃学出版)。
創立の精神をなおざりにする。
その組織は、自らの存在意義を見失う。
その組織では、自分勝手が横行する。
そして、その組織は、必然的に衰亡する。
創立の精神を大切にし、その精神を体現し続けていくところが、勝ち栄えていくのである。
ワーズワースは、「英知の導くところへ、勇敢なる歩みを運ぶことを、我が使命となそう」と書いた。
私たちにおいては「行学の二道」であり、「広宣流布」への勇猛精進である。

ご存じの通り、先月、中国の名門・華中師範大学で、「調和社会と調和世界 ── 池田大作思想国際学術シンポジウム」が開催された。
これには、北京大学はじめ20大学・機関から、約70人の一級の研究者が出席された。
〈席上、出席者の総意で、池田名誉会長の名誉学術称号200の受章に対する「慶祝文」が採択された〉
また、4回目となった今回の国際学術シンポジウムには、中国の歴史学者で、「史学大師」と仰がれる章開沅先生も参加され、「道は異なれど、行き着く所は同じ ── 私と池田先生の出会いと交友」と題する基調講演をしてくださった。
章先生と私は、対談集の編集に向けて、現在、「歴史」と「文化」と「教育」を巡る対話を進めている。
この章先生が大切にされている言葉がある。
それは「薪火相伝」。中国の古典『荘子』に由来する言葉である。
章先生は、この言葉について、「薪は自らを燃やすことによって火を伝えていく」という意義であるとし、次のように語ってくださった。
「創価学会も、牧口先生から戸田先生へ、戸田先生から池田先生へと、三代の会長に厳然と受け継がれてきたことは、まさに『薪火相伝』と言うにふさわしい壮挙であります。
その偉大なる炎は、これからも、師匠である池田先生から若い後継者へと、綿々と受け継がれていくことでしょう」
この世界の知性の期待と信頼を、私は、そのまま、青年部をはじめ、未来を担いゆくすべてのリーダーの皆さんにお伝えしたい(大拍手)。

この10月から11月にかけて、ヨーロッパの25力国で教学試験が行われている。
約8000人の求道の友が受験されている。
言語も、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、オランダ語、セルビア語など、さまざまである。
本当に尊い仏道修行である。日蓮大聖人が、どれほど喜ばれることか。
スペインでも、わが同志は、かつての悪逆な邪宗門の陰謀をすべて打ち破って、大発展のなか、晴れ晴れと創立の日を迎えられた。
今回の教学試験にも、300人を超える同志が、バルセロナ、マジョルカ島、サラゴサ、マドリード、バレンシア、セビリア、マルベージャ、テネリフェ島、グラン・カナリア島で受験されるとうかがった。
大勝利のスペインの同志を讃えながら、19世紀スペインの女性の〝人権の闘士〟コンセプシオン・アレナルの言葉を申し上げたい。
「言葉は真実を述べるため、そして人々の苦しみを癒すために授けられたものである。ゆえに、不正や誤りや不幸を前に沈黙してはならない」
「善のために使われる時間は、時間の浪費にはならない」
「あきらめるということは、苦しむ習慣をつけるようなものである」
終わりに、句をお贈りしたい。

我が同志よ  勝ちに勝ちたり  創立日

学会の同志は、仏法の視座から見れば、生死を共にする仲である。
私にとっては、家族以上の存在である。最高幹部もまた、そのつもりで全力を尽くしていただきたい。
私は、世界中に信頼の広がり、友情の広がりをつくってきた。
学会員の皆さんが元気であればいい。喜んでくれればいい。幸福であれば、それでいい ── すべて、この一心からの行動である。
また、そのために、私は正邪を公正に言い切ってきた。まじめで公正な人々が苦しむようなことをさせない。それが私の責任であり、広布の指導者の責任であるからだ。
この責任を忘れた幹部は「我見」に陥る。「異体同心」の心でつながっている同志の絆を、おかしくしてしまう。
学会のリーダーは、決して気取らず、「誠実」の二字で戦ってほしい。その誠実の行動に、仏の生命の発露である「慈悲」も輝くのである。
寒くなってきたので、風邪などひかないように気をつけてください。
各地の同志の皆さまに、どうかくれぐれもよろしくお伝えください! (大拍手)