2015年8月20日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 8月20日(木)23時39分42秒 通報 >先生が聞かれたら、オイオイって言いたくなることいっぱいあるに違いない< 先生からしたら、弟子がどれほど戦おうと、実証を示そうと、「勝って当たり前」が師弟不二であり、当然のことなのかもしれません。どんなに祈り、結果を残そうとも、先生からしたら踊っているだけに映るかもしれません。逆に、「増上慢だ」とお叱りを受けるようなことになるかもしれません。 それでも弟子は師の構想を実現せんと、祈り、考え、実行していくものだと思います。それが師にとっては、「まだまだ」な内容であったり、お叱りを受けることであったとしても。師が一番残念がることは、「何もしない」ということであり、それこそが最大の失敗でしょう。師に肉迫するために、トライ&エラーを繰り返すことによって血肉となり、実力がついていく。人は愚かなもので、自分たちが正義(先生の意志を体現)であり、ぶつかり合いをしてしまいがちです。しかし、永遠の希望様が仰るように、「秘密の部屋」の意識が重要であり、それを忘れてしまったのなら、還って師の心を死す結果となります。「師の真意はわかっていない」ことを前提としながら、それでも全力で信じる道を往く姿勢が大事だと思います。 「我こそが大聖人の本物の弟子」と勘違いしたのが五老僧であり、そうなってしまうと人の話に耳を傾けられなくなる。結果、日興上人の諫めにも耳を貸さなくなり、転落していきました。師に立場が近ければ近いほど、転げ落ちて行く可能性が高く、十分注意しなくてはなりません。「わかるんだけどわからない」が師の真意であり、その謙虚さがあってこそ、はじめて弟子の道を貫けるのではないでしょうか。「自分はわかっている」では提婆達多の生命であり、師を軽んじるようになったら、それこそが師敵対というものです。 師を軽んじる師敵対者は、師を利用するようになります。心の底で、師を侮り、馬鹿にしているからです。師の指導を自分の都合のいいように捻じ曲げ、真意を歪めていく。ここから仏法は壊れていくことを知らねばならない。師の境涯は計り難しであり、そのことを夢にも忘れてはならず、54年は、師を軽んじた弟子失格の歴史であり、二度と繰り返してはならないのです。失敗は許されるが、同じ失敗は断じて許されない。そうならないためにも、宿坊の掲示板では「54年の総括」ということで、全国・全世界の学会員が意見を出し合っているというのが私の認識です。 そういう意味においても、より一層の価値ある投稿を心掛けていきたいと思います。 Tweet