投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 8月10日(月)21時14分49秒     通報 編集済
>折伏の最大の功徳は、祈りは叶うという確信を得たことだと思います<

折伏によって信が深まっていくこと。これこそが最大の功徳ですね。
私もはじめての折伏の際には、家族の突然死、自身の交通事故による絶体絶命のピンチ等、魔が競い起こりました。激しい死魔が襲い掛かる中、それを乗り越えて御本尊流布をしました。広宣流布の戦いを起こすということは、三障四魔が雨あられです。自身の業が魔となってあらわれ、妨げようとします。だからこそ宿命転換も人間革命もできるのだと認識しています。
逆に何もないほうがおかしなことであり、それは戦っているのではなく、踊っているだけなのかもしれません。信心をするということは、自身の厳しい宿業と対峙するということであり、弱くては戦いになりません。私自身は、死魔との激戦を通して信心が深まり、血肉となりました。この生きた経験によって、自身に信心の楔が打ちこまれ、浅い功徳ではなく、より深い功徳を実感できるようになりました。

私の経験上、逆境であればあるほど、先生の指導が命でわかるようになります。難と戦わなければ先生の指導も観念論となり、軽く考えるようになります。そこからズレが生じ、おかしくなっていくのだと思います。三障四魔、三類の強敵との闘争なき幹部は、知らず知らずのうちに先生の一念から離れていきます。保身に走った五老僧もきっと同じような状態だったのではないでしょうか。難と戦う信心を捨て、うまく世渡りをしはじめた結果が、師敵対という謗法の道へと転げ落ちることになった。実に恐ろしいことだと思います。

今現在、創価学会総体として難を受けることはなくなってきました。だからこそ危ないのです。魔は天界に住み、厳しき難との闘争がなくなると、そこから食い破られる。恵まれた時代であればあるほど、魔の正体も見破り難しであり、難と戦える人材も少なくなります。それはまさに第六天の魔王にとって有利な環境と言えましょう。恵まれているからこそ、一人ひとりが、一歩深い信心を意識し、成長していくことが大事になるのではないでしょうか。

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