投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月15日(水)13時08分21秒     通報
遠藤: そこに法師品以降が大切であるゆえんがありますね。
大聖人は、法師品から安楽行品までの五品は、その前の八品で明かした「一仏乗」の法を、末法の凡夫が、どのように修行すべきかを説いていると仰せです。
〈「方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し傍には菩薩凡夫の作仏を明かす、法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行す可き様を説くなり」(御書 p1499)〉

名誉会長: 「末法の凡夫」とは大聖人のことであられる。総じては、大聖人に連なる門か下のことです。
大聖人は、御書の随所に、法師品など五品の経文を引用されている。法華経の中でも、法師品以降、滅後について説かれた個所の引用は圧倒的に多い。
それは、ここに説かれた滅後の「法華経の行者」の姿が、そのまま日蓮大聖人のお振る舞いと一致しているからです。
言い換えれば、法華経を身で読まれたのは大聖人お一人である、法華経は大聖人のために説かれたのである、という証明になっている。
そして、仏を仏にした「根源の一法」である「南無妙法蓮華経」こそが法華経の真髄であり、末法のすべての衆生を救う大法であることを教えようとされたのです。

斉藤: それで、“法師には仏に対するのと同じ供養をすべきである”と法師品で説いているわけがわかります。
この所を梵本で見ると、法師について、より明確に「如来であるとみなされるべきである」「如来と等しい者である」と説かれています。
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法師品から
「是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶるなり。若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり」(法華経 p385)

この人は、行いによって得た、清浄な仏国土に生まれるべき果報を自ら捨てて、私の滅後に、衆生をあわれみ、利益するために、悪世に生まれて、広くこの経を演説するのである。もしも、この善男子、善女人が、私の滅後に、ひそかに一人のためであっても、たとえ一句であっても、法華経を説くならば、まさに知るべきである。この人は、如来の使いであり、如来から遣わされたものとして、如来の仕事をなすのであると。
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須田: さらに、法師は、仏から派遣されて如来の仕事を行う「如来の使」であるとも説かれています。大聖人の御書で、しばしば引用されている重要な経文です(p232 経文を参照)。
また、法師を一言でも誹謗する罪は、仏を一劫という長い間、面前で誹謗しつづける罪よりもさらに重い。
逆に仏を一劫の間、無量の偈を持って賛嘆するよりも、法師を賛嘆する功徳のほうが勝るとも説かれます。

名誉会長: それは、ひとつには、仏よりも法こそが成仏の原因であり、大切だからです。
法華経は、釈尊を含めて、あらゆる仏を仏たらしめた「根源の法」を説く経典です。その「本因」の法を説くのが末法の法師なのです。

遠藤: 法が能生(生まれさせるもの)、仏が所生(生まれるもの)という関係ですね。

名誉会長: 大聖人は、この「法」のことを「慈悲の極理」だと言われている。
〈唱法華題目抄に「一切の諸仏・菩薩は我等が慈悲の父母此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとどまれりとおぼしめせ —- 法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍り」(御書
「慈悲の極理」 具体的には「南無妙法蓮華経」の法が含まれているからこそ、法華経は一切経に勝れているのです。あらゆる人々を救える慈悲の大法です。法師品には「法華最第一(法華最も第一なり)」(法華経 p390)とある。

遠藤: 有名な「已今当」の経文も、そのことを示しているのですね。〈「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」(同)〉

斉藤: その意味では、「如来の使」とは「慈悲の使い」ということですね。
法師は、法華経を受持・読・誦・解説・書写しながら(五種法師)、仏の大慈悲心を修行するわけですね。もちろん、末法は「受持即観心」で、御本尊を受け持つ修行に尽きるわけです。

名誉会長: 仏の心を生きるのです。「すべての人を救いたい」「一切の衆生を仏に」という仏の誓願に生きるのです。
それが「受持」等の五種の修行の根っこです。形式的に法華経という経巻を所持したり、読誦したり、解説することではない。仏の心を受け、仏の慈悲を生き抜くのです。
これまでの声聞への授記といつても、所詮は、この「仏と同じ心」を声聞たちに思い起こさせるためにあった。そして、この心を、仏の滅後に実践する人が法師です。