投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 9日(木)08時24分1秒     通報
遠藤: 天台は、法華経の授記を三因仏性に当てはめ、不軽菩薩の授記は“正因仏性の授記”であるとしています。
三因仏性とは、正因、縁因、了因の三つです。正因とは、すべての人にある仏界の生命です。了因とは、その仏界を涌現させる智慧です。緑因とは、その智慧を現すための善根、修行です。
この三つが成仏の原因になります。天台によると、法華経における声聞への授記は“了因仏性の授記”に当たります。
また、法師品の十種供養*など、仏を賛嘆する信仰実践によって成仏できると説くことを“縁因仏性の授記”としています。
そして、不軽菩薩があらゆる人々に仏性を見いだし、礼拝したことが。“正因仏性の授記”です。
────────────────────────────────────────
* 十種供養
①華 ②香 ③瓔洛(玉をつないだ首飾り) ④抹香(粉にした香)
⑤塗香(香を手や身に塗って行者の身を清めること)⑥焼香(香をたくこと)
⑦(絹のかさ)⑧幢旛(仏堂に飾る旛)⑨衣服 ⑩伎楽(音楽)の供養。
繪蓋と幢旛をあわせて一種とし、合掌と加えて十種とする説もある。
────────────────────────────────────────
斉藤: 正因仏性の授記は、自身の内なる仏界に気づかせることですね。

名誉会長: そう。正因仏性とは、要するに心そのもの、生命そのものです。その偉大な可能性に気づかせるのが正因仏性の授記であろう。
わかりやすく言えば、あらゆる人々に“あなたも必ず最高に幸せになれる”と、言い切っていくことです。
苦悩の闇の中で諦めきった人々に希望を与え、挑戦する心を蘇らせることです。また、停滞し、行き詰まった社会にあって、「人間には、すべての難問を解決する無限の可能性がある」と主張することです。
どの人も妙法の当体です。人間であることが尊いのです。それを身をもって示したのが不軽菩薩の礼拝行です。
大聖人は、この不軽菩薩の実践とご自身の実践は同じであると言われている。南無妙法蓮華経と唱え、弘めるのは「末法における授記」なのです。大聖人は「記とは南無妙法蓮華経なり」(御書p730)と仰せです。
この南無妙法蓮華経の授記について、大聖人は「妙法の授記なるが故に法界の授記なり」(御書p731)と仰せです。法界の授記とは、十法界(十界)すべてに対する授記ということです。十界のいかなる衆生も妙法の当体であるとはっきり示すのが、南無妙法蓮華経の授記なのです。
たとえ地獄界にあっても妙法の当体であるから必ず成仏できる
そのように授記していくのです。これが法華経の「万人への授記」「平等の授記」の究極です。
そして大聖人の仏法は下種仏法です。その「授記」、つまり南無妙法蓮華経の記を授けるとは、妙法を下種することであり、妙法と結縁させることです。人々の生命の奥底に、自分は妙法の当体であるとの自覚を植えつけることです。それは、生命の無限の可能性を言い切っていくことでもある。
また、南無妙法蓮華経は、幸福と平和の種子です。南無妙法蓮華経の授記とは、人類を幸福と平和への「間違いなき軌道」に乗せていくのです。すべての衆生は妙法の当体であるとの深い生命観、人間観が根づいていけば、人類は、その「間違いなき軌道」を歩むことができるにちがいない。
ともあれ、成仏とは「ゴール」のようで「ゴール」ではない。絶対の「軌道」です。永遠に向上、永遠に充実、永遠に遊楽へと進んでいける「希望」そのものです。法華経の「未来成仏」も、永遠に「未来へ」「未来へ」もっと成長していこう、もっと人を救つていこうという、現当二世の心を教えているのではないだろうか。

遠藤: 成仏が、そこから先は何もない「完成」だったら、かえって、つまらないでしょうね(笑い)。

名誉会長: 成仏の「軌道」に入れば、そこで出あう嵐も、吹雪も、木枯らしも、もちろん春風も、青空も、太陽も、すべて心から楽しみきっていける。
「生」も楽しい、「死」も楽しいという無上の境涯。その永遠の充実、永遠の希望を約束する「軌道」なのです。
「一生成仏」「即身成仏」の、限りない連続とも言える。

遠藤: その究極が「難来るを以て安楽と意得可きなり」(御書p750)との大聖人のご境涯ですね。

名誉会長: そうだと思う。「三類の強敵」「三障四魔」。これらの難は、「あなたの進む道に間違いはありませんよ」「これを乗り越えれば必ず仏になれますよ」という最高の保証です。
難があるから今、進んでいる広布の道が正しいとわかる。生々世々、仏の軌道に入っていくと確信できる。最高の励みです。
ゆえに信心の眼でみれば、「難」もまた「授記」なのです。仏道修行の“卒業試験”とも言えるだろう。
「三類の強敵」が競い起こった時こそ、実は、成仏の「軌道」に入るチャンスなのです。
入れば、永遠に仏です。

斉藤: これまで、漠然としていた「授記」の深い意味が明快になりました。

名誉会長: 人類にとって、正しき「軌道」が必要です。
「われわれは、曲がりくねった道を無謀な速度で車を運転している」十年ほど前にペッチェイ博士(ローマクラブの創設者)と語り合った際、博士と私の現代文明への認識は、このような表現で一致しました。
そして「怖さを知らない子どもが、速度を増せば増すほど喜んで、自動車のアクセルを強く踏むように」「いまにも大惨事を招く危険を冒している」と。

遠藤: 我々は、どこへ向かっているのか。どこへ向かうべきなのか。「確たる軌道」がないまま、予測できない暗闇に向かって、今も暴走し続けている。それが現代の人類なんですね。

名誉会長: 博士と語り合った十年前から、状況は一向に良くなっていない。良く変えようという「気力」さえ、ますます失われてきている昨今ではないかと私は憂える。

斉藤: 原因は、やはり、人間を“置き去り”にしてきたからではないでしょうか。
機械は進歩した。性能もアップした。スピードも増した。それらの粋を集めて文明社会という“車”をつくったのに、運転する「人間」自身が未熟なままなのです。だから、子どもが車を暴走させて喜ぶような状態になっている —- 。

名誉会長: その通りです。どうすれば、暴走を減速させ、人類を正しい方向に向かわせることができるか。「人間革命しかない」。これが博士と私の結論であった。
「人間自身」が、変わらねばならない。「正しい方向を目指す人間」をつくろう。そうした人間が社会に広がれば、社会の方向も変えられるはずだと。
博士は言われた。「人間革命こそが、新しい進路の選択と、人類の幸福の回復を可能にする積極的な行動の鍵なのです」 「正しい方向を目指す人間」を開発するのが仏法です。「正しい方向」とは「自他ともに幸福になる」ことでしょう。その方向への「確かなる軌道」へ、自分も入り、人をも入らせていくこの“生命の触発作業”が、「人間革命」の運動です。また仏法を基調にした平和・文化・教育運動です。
これらは広い意味で、法華経の「授記」の精神に通じている。