投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月15日(木)09時56分52秒  

以上、六波羅蜜を「人間の条件を表したもの」として解釈してきました。
このように六波羅蜜を見ていくと、人間が人間らしく生きるための条件として、
じつに見事に説き示していると思います。

過去の思想や宗教は、それらのいずれかを個別に説いたに過ぎず、
六波羅蜜は、それを総合的に明示したものなのです。
しかし、もしこれらの条件の一部だけに捕らわれてしまえば、
たちまち行き詰まり、偏頗な思想に陥っていくと思います。
布施や利他のみに捕らわれたならば、
現実社会に生きる人々は、まるで奴隷のような絶望感に陥ってしまう。
また持戒のみを事とするやり方は、発展性を失い、固定化や歪曲を招く恐れがあります。

忍辱のみを強調した場合は、悪の増長を許す温床にもなり、
精進のみでは他人のことを考えず、人を踏みにじってでも、ということにもなりかねない。
禅定のみの場合、現実社会から逃避し、
独善主義に走る危険性が出てくるし、智慧のみでは人間は狡猾になる可能性があります。

こう考えていくと、本当の意味で人間らしいといえるのは、
これらの条件がその正しい「時」と「所」を得て発揮されることが大事なのだと思います。
「六波羅蜜自然に在前す」(二四六頁)とは、
妙法を受持したときに「六波羅蜜」の全体が、おのずと具わるということであり、
南無妙法蓮華経こそ、六波羅蜜の表す諸条件を、正しい調和を保って顕現させる当体であるということなのです。

この六波羅蜜を詳細に見ていくことによって「受持」という本質がより明確になってきたと思います。
大聖人は「心の師とはなるとも、心を師とせざれとは、六波羅蜜経の文ぞかし」(一〇二五頁)
との経文を引かれて「心」の在り方を強調しました。
「受持即観心」という法理は、不惜身命の信心を貫いていけば、
その信心におのずと観心が成就することを教えているのではないでしょうか。

このあと大聖人は、さまざまな「経・釈」を引いて、受持即観心の法理を論証していきます。

そして、その結論を「釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。
我等、此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(二四六頁)

――釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に具足している。
我らがこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えられるのである――と締めくくりました。これこそ仏法の究極であり、すべての人々の成仏の根源を明快に断言された一節です。

先の文で、観心とは「我が己心を観じて十法界を見る」(二四〇頁)と明記しましたが、
その観心を成就すれば、どうなるのか――その「答え」が上記の一節です。