2015年6月16日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 6月16日(火)23時40分58秒 通報 54年の問題の本質も「保身の一念」であると思います。師よりも学会の組織を護ることを優先したというのは聞こえはよく、その根底にあるのは保身であることは間違いないでしょう。保身という人間の弱さに魔がつけこみ、結果的に師を裏切る形となった。私はそのように見ています。 保身の一念は誰もが有しているものであり、もちろん私にもあります。だからこそ、いざという時に自分を守ってしまう人の気持ちもイメージできます。そして己の弱さと向き合うことができず、認められない心理もわかります。自分の弱さに負けたことを認めることができた時、人は強くなれます。弱さの中に強さがあり、私自身、そのことを実感する日々です。 先生の呼び掛けられている「発迹顕本」という言葉の中には、一体何があるのか。発迹顕本といっても、一部の人間にしかできないような特別なことであったのならば、先生は呼び掛けることはないでしょう。発迹顕本というのは、「変革」の総称表現であり、答えは一つではないでしょう。「師弟不二の覚醒」「羊の信心から悪と戦う獅子の信心へ」「第二の山本伸一になるという誓願の題目」など、もちろん大聖人のような法華経を身で読むことも発迹顕本でしょう。私は発迹顕本ということを、誰もが実践可能で、かけ離れたものではないものにしたいのです。 保身の一念は行き詰まりを生みます。行き詰まったら原点に帰るのが定石であり、創価学会の原点は牧口先生の殉教にあります。まずは自身が保身の一念であることを認める勇気が必要であり、それができた時に原点に帰れます。保身という偽物を捨て、牧口先生の精神を受け継ぐ本物の信心へと深化させること、これもまた発迹顕本でしょう。保身は最終的にすべて失うことになりますが、保身をかなぐり捨てて戦ったときは、一時的には色々失いますが、最後は最高の形となって返ってきます。これが法則ですので心配はいりません。 戸田先生が獄中闘争を耐えられたのも「己を捨てた」からであり、自分自身のちっぽけなプライドを捨てられるかが、法難を勝ち越えるためのポイントなのかもしれません。人の本質は、追い込まれたときにわかるものであり、弱さを知らない人間に強さはありません。強い人というのは弱さを知っている人であり、だからこそ優しい。弱さを隠し、自身を正当化するところに強さはありません。最高幹部や職員が自身の弱さと向き合い、認めることができたら、今の何倍も学会は発展するのではないかと密かに考えています。面と向かってこのことを言うわけにはいきませんので、ここだけの話ということでお願いします。 創価学会の発迹顕本についても、先生は「頼む」と言われているので、私は学会の体質そのものも変えていかなくてはならないと考えています。まだまだ事なかれ主義が蔓延し、幹部の一方的な姿勢や、話を聞かない姿勢が目立ちます。納得の対話ができるだけ成熟している組織とはいえず、成果主義にも陥りがちです。多くの会員は思考することを放棄し、打ち出しに忠実。「団結を乱す」ということで、言うべきことも言えない雰囲気がつくられています。私はそういった組織の負の側面にメスを入れていき、改革をしていきます。 すべての問題はつながっており、教義変更の件も決して偶然起きたものではありません。組織の体質が生み出したものであり、組織の体質といっても、一人ひとりの一念の集合体が組織ですから、自分自身の一念の問題でもあるのです。そのように捉えていくのが仏法であり、自身とかけ離れた問題ではないということです。究極的には起きている問題すべてが「私」の問題なのです。 Tweet