2014年12月28日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月28日(日)16時34分39秒 この中に「機」とありますが、これは民衆の機根ということです。 相手に今、何を教えればいいのか、何が必要なのか、何を望んでいるのか、 何が聞きたいのか、ということをよく熟慮して進めていきなさい、ということです。 しかし、大聖人は一方で「末代の凡師、機を知り難し」(四三八頁)とも述べています。 つまり末法の仏法指導者は、民衆や会員の機根を知らない、と突き放した言い方をしています。 確かに、人の心や機根は、簡単にわかるものではありません。 大聖人は次に「但し、機を知らざる凡師は、所化の弟子に一向に法華経を教うべし」 (同頁)とも述べています。 民衆の、また会員の機根をわかるには、毎日毎日、人と会い、対話を重ね、 何回も何回も仏法を説き、折伏し、精神の啓蒙運動という実践がなければ、 人の心、機根などわかるわけがありません。 つまり、私たちで言えば、民衆の中へ入り、会員の中へ入り、会員とともに悩み、 人々の心のヒダに触れていけば「機」は自然に体得できるようになるはずです。 もちろん凡夫ですから、時には失敗することもありますが、繰り返し、繰り返し、 民衆の中で共に悩み、苦しみながら、やがて人の心がつかめるようになってくるのではないでしょうか。 「所化の弟子に一向に法華経を教うべし」とは、 会員の話をよく聞け、また、会員がいるから幹部は成長できるのだということです。 その熾烈な訓練の実践で培った自身の言葉が、相手の心に安心を与え、 納得を与える声になっていくのだと思います。 その意味で「読みとるための心得」とは、自分の境涯革命しかないと思います。 訓練・鍛錬に尽きると思います。簡単ですが、以上です。 最後に、私の座右の銘を記して終わります。 人は理想に向かって 進む時に輝き 使命を自覚して 鍛錬する時に 大いなる向上を遂げる ―― おわり Tweet