2015年6月8日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 6月 8日(月)01時26分4秒 通報 本門の題目には、信と行がある。これは日寛上人の六大秘法における立てわけであるが、創価学会は六大秘法を用いない模様のようですが、重要なので考察していきます。 信の題目:御本尊を信じ、題目を唱えること。 行の題目:御本尊を信じ、題目を唱え、行動すること。 御本尊を信じ、題目を唱えるが、行動なき場合は「不足」という位置づけとなり、行動が伴って、はじめて本門の題目となる。逆に、信心なき行動は、「不可」という位置づけとなり、元も子もなくなる。このことを日蓮大聖人は、「信心なくして、どんなに懸命に妙法を行じても、手がなくして宝山に入るようなものである」(P1045 趣意)と仰せになっています。問われるべきことは常に信心から発した行動であるか否かであり、それがなければ、どれだけ行動していようが不可である。 学会活動においても、ただ打ち出しをこなしたり、会合に参加していればいいというものではない。どれだけ結果が出たとしても、そこに歓喜がなければ信心ではない。自らの決意で題目を唱え、行動を起こすところに信心があり、それ以外に広宣流布が進むことはない。 真剣な祈りは、必ず行動となって現実に具現化される。行動なき祈りというのは、厳密にいうと、祈りになっていないともいえる。この場合、不可ではなく不足であるが、俗にいう「祈りが足りない」という表現の根底にあるのは、題目の量ではなく、真剣な一念がないことである。仏道修行で一番簡単なのが題目を唱えることだが、一番難しいのも、題目を唱えることである。ここでいう題目とは、「真剣な題目」を指します。凡夫にとって、真剣に祈ることは大変なことであり、なぜならそこには必ず不信との戦いがあるからである。 どんな時代になろうと、最も重んじるべきものは「求道心」であり、教学の研鑽も求道心の発露に他ならない。近年、どんどん教学離れ(浅い教学)への移行が推進されていますが、真理の探究なくして、信心を深めることはできない。どこまでいっても信心というのは、信行学であり、この三つを深めていく必要があります。「行」が重視されがちですが、浅い信心では、浅い行動となって表れてしまう。 拙速な教義変更においても、果たして信心あっての行動だったのか否か。御本尊という最重要事項の変更であるのだから、足並みを揃え、準備を整えた上でのものでなければならないのは当然である。そうでなかったとしたら、何故、そのような事態になってしまったのか。まさに「信心」が問われており、行動の部分だけを見るのは仏法者ではない。 信なき行は、明らかな誤りであると日寛上人は指摘されています。これに対し、信はあるけど行がないのは、不足であり、誤りとは違う。この違いをしっかり押さえておいたほうがいいでしょう。教学離れの風潮だからこそ、教学をしっかり学んでいくことが大事であり、それが未来を創ることになります。ともあれ、日寛上人の遺言であり、命そのものである六巻抄を、今こそ学んでまいりたい。卓越した論理展開の中に、次世代の創価学会構築の道標があるのだから。 Tweet