投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 6月 1日(月)14時10分31秒     通報
池田大作全集78巻より
青年部・教学部代表協議会 (1991年9月20日)③

■恐怖感与える「瞋り」の人は自滅の道を

日亨上人は、さらに述べられている。

「先づ瞋恚の煩悩と云うのは普通の忿
(=いかる)とか怒(=いかる)とか
憤(=いきどおる)とかと共通する『イカリ、オコル』ことである。

古語に『腹アシキ人』
現代に『チウッパラ』の人である、
我が目前に顕わるゝ境遇が自分の気に向かねば用捨(=容赦)なく御機嫌を損ぬる事である、
違順の境界(=苦を感ずる境界と、楽を感ずる境界)と云って自分に都合のわるいのと都合のよいのとに安忍(=安心し、堪えること)が出来ぬ、特に都合のわるい嫌な境遇に触れて目を怒からして血色を励まして(=顔色を変えて)忿々とおこる」と。

舎利弗ほどでなくとも、一般にも、頭は良いかもしれないが気むずかしく、気分屋で、すぐにカッとなりやすい人はいるものだ(笑い)。

そういう人は、行動や容貌にあたたかさが感じられず、何となくとっつきにくい場合が多い。

そういう人が何かのきっかけで、「瞋り」のあまり正気を失ってしまうと、どのような正論も耳に入らなくなる。

言われれば言われるほど、自分を省みるどころか、ますます怒り、猛り狂っていく。
ついには″毒蛇″のように自分自身をも滅ぼしてしまうのである。

とくに、高い指導的立場にありながら、″気に入らないから″言うことを開かないから″というだけで、目下の人々を攻撃するようなことがあれば、それは日亨上人がお述べの「瞋恙」の姿以外の何ものでもない。位が高いほど、その罪は大きい。

日亨上人は、また
「其人々の特有の瞋恙の程度相応に其に接する他の人々が不快なり恐怖なりを感ずるものである」と述べられている。

瞋恙の心が強い人ほど、周囲の人々を不快にし、恐怖におとしいれる、と。

「抜苦与楽(=苦を抜き楽を与える。仏の慈悲の行為)(御書七七三ページ)こそ仏法の精神である。

それを反対に、人々を苦しめ悩ませ、「不快感」や「恐怖感」をもたらすようでは、もはや仏法者とはいえないであろう。

ゆえに私どもは、こうした「瞋恙」の悪の勢力に対しては、絶対にひるんではならない。
こちらが安易に″妥協″したり、中途半端に″寛容″になれば、ますます増長し、かさにかかって圧迫を加えてくるだけである。

「正論」の呼びかけに耳を閉ざし、「対話」をすら拒む″毒蛇″のような心の人々に対しては、相手の非を完全に打ち破るまで徹底して戦いぬくことが、仏法者としての真実の「慈悲」に通じていくのである。

そのことを、日亨上人は次のように述べられている。

「併しながら通俗の人々から疎外せられ怨嫉せられ迫害せられて、患難不安の中に辛うじて世を送るとも、正法をだに厳持せば遂には邪は正に勝たず、終極の勝利は清浄人聖賢人正法行者に帰して、安穏なる事を得る、此は諸天善神等の悪を忌みて善に与みする者が顕に冥に正義者を保護するからである」

「されば第一に積極的に正義を主張して少しも迫害苦厄を恐れぬ大勇猛信(=心)を持つ者は、陰に陽に、一直線に強盛に正義を主張するが善い決して他人の 云為うんい (=言動)を顧慮(=気にかけること)すべきでない、諸天の加護、仏祖の冥加は日々夜々に下るであろう」

どのような迫害や苦難に遭おうとも、正法を持ち、「大勇猛心」の信心で正義を主張していけば、必ず諸天の加護がある。御本仏日蓮大聖人が厳然とお守りくださる、との意である。

「邪は正に勝たず」と――。

大聖人の仰せのままに正法を実践している私どもが、正道無視の″邪″に勝利することは絶対に間違いない。どうか、このことを強く強く確信し、大いなる勇気をもって一直線に「正義」を主張しきっていただきたい。

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池田大作全集78巻より
青年部・教学部代表協議会 (1991年9月20日)
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