投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月11日(月)22時38分29秒     通報
池田大作全集80巻より
全国青年部幹部会、新宿・港合同総会
(1992年1月15日)②

エマーソン「死んだ形式は奴隷のためにある」

ところで、ハーバード大学での講演では、アメリカ・ルネサンスのリーダーであった哲学者・エマーソン(一八〇三~一八八二年)の言葉を紹介した。

「私のうちに神を示すものが、私を力づける。
私の外に神を示すものは、私を、いぼや 瘤こぶ のように、小さなものとする」
(『エマソン選集第』1,斎藤光訳、日本教文社)と。

人間を根本としない形式主義、権威主義は、自分を、醜く、卑小なものにしてしまう。

私どもの立場でいえば、御本尊を信ずる自身の中に「日蓮大聖人」の御生命がわいてくる。
自身の生命にある尊極の「仏界」、己心の「本尊」を示すものが、「自分を力づけて」くれる。それが妙法であり、信心である。

日寛上人は「観心本尊抄文段」の中で

「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、祖聖人なり」(文段集五四八ページ)

と述べられ、我々が御本尊を信受し唱題する意義は、大聖人の御境界を顕された一念三千の御本尊を、我が身に顕すことであることを示されている。この法理には、何の差別もない。

また戸田第二代会長は、次のように語っている。

「日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たるわれわれの生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう。ですから『日女御前御返事』には、『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』。このようにおおせられているのであります」

「われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、われわれの生命に感応して湧いてくるのです。われわれもやはり、ありのままの永遠 真如しんにょ の自分にかわるのです」

エマーソンについては、コックス教授も、お手紙の中で、こう書いておられる。
「エマーソンは、ハーバード大学神学部での有名な講演や、そのほかでも訴えていますが、

『人間は外発的な権威、あるいは伝統のみで、漫然と宗教を受け入れるべきではない』と主張しました。

精神的な方向づけは、すべての人間に不可欠のものではあります。しかし、人間は自らの体験により、それを検証し、自己のものとしなければなりません」と。

すなわち、宗教とは、権威や伝統、形式といった″自分の外にあるもの″からのみ、与えられたものであってはならない。

常に自身の「体験」の上から、「信じられるのか」「正しいのか」を検証しなければならない、というのである。

学会の「体験談」「実験証明」を中心にした在り方が、いかに正しいかの一つの証明である。

エマーソンは、権威と伝統で人々を縛り、見下す既成宗教を「死んだ形式」と断じ、痛烈に批判した。また、こう述べている。

「われわれは『教会』と『魂』とを対照させた。魂のなかに救いを求めなくてはならない。
(真の)人間が現わるところには、必ず革命がおこる。古いものは、奴隷のためにある」
(前掲書)と。

「奴隷」とは、 隷属れいぞく の境遇に自ら甘んじ、自分で考えることも、自分で検証することもなく、権威に支配されるに任せている人々のことであろう。

伝統を誇るだけの「古い権威」「死んだ形式」に 盲従もうじゅう することは、精神の奴隷となるに等しいと警告しているのである。

かつて日亨上人は、人々を見下し、食いものにし、隷属させゆく悪侶の本性を「毒蛇」であると述べられた。

また、戸田先生は、学会を裏切り、反逆していく者は「心の奴隷」であると厳しく戒められていた。

私どもは、どこまでも真の「人間」でなければならない。そして真の「人間」であろうとする時、宗教革命、社会革命による人間解放は必然となるのである。

エマーソンはさらに、こうも語る。

「世界で価値のあるただ一つのものは、能動的な魂です。あらゆる人は、この魂を持つ権利を与えられています。あらゆる人は、この魂を自らのうちに蔵しています」(前掲書)と。

″人々よ目覚めよ。権威を恐れるな。
形だけの伝統にだまされるな。
自らの活動的な魂、内面の魂を輝かせよ″
──このエマソンの叫びは、宗教界に対する、鋭き 弾劾だんがい であった。

大事なのは「自分」である。自分の「生命」である。外にある御本尊も、我が″内なる″御本尊を顕すためにこそ大聖人が建立してくださったのである。

我が身の″仏性″を顕すことが信心の最大事であり、本来、この″内面の魂″
──尊極の生命を最大に輝かせていけるのが、大聖人の仏法である。

そして、この妙法の根本精神を破壊し″外なる権威″で支配しようとする「死んだ形式」と、敢然と戦っているのが学会なのである。

歴史は繰り返す。アメリカ・ルネサンスをもたらしたエマソンの獅子吼は、私どもの前進に、勇気の風を送ってくれている。今まさに、創価ルネサンスの時代!学会が叫ばざるをえない時が来たのである。

学会は″広宣流布ひとすじ″

日蓮大聖人が佐渡に流罪されて二年になろうとする、文永十年(一二七三年)の七月──。

それまでに、大聖人のもとには、さまざまな門下の声が届いていた。そのなかには、「どうして、まだ 赦免しゃめん されないのか」といった、嘆きの声もあった。しかし大聖人は、そうした弱々しい心の門下を、強く励まされていた。

富木常忍ときじょうにん へのお手紙(土木殿御返事)の中では、こう仰せである。

「御勘気ゆりぬ事・御歎き候べからず候」
──流罪が 赦ゆる されないことを、お嘆きになってはならない──と。

厳しき戒めのお言葉である。
″私の弟子ではないか。「妙法の英雄」ではないか。何があろうと、嘆くなかれ。驚くなかれ。たじろぐなかれ″

──そうした大聖人の大確信の御心が、拝されてならない。

何かが起こった
──そこからが本当の戦いである。

何があっても変わらない。ひとたび決めた「我が道」を行く。いかなる困難も、恐れず進む。それが信心であり、人生の究極である。戸田先生が常々言われていた、「学会精神」なのである。

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■全国青年部幹部会、新宿・港合同総会
(1992年1月15日)①
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