投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月 6日(水)10時19分27秒     通報 編集済
少し内容と議論を深めていきましょう。

5/5の投稿より

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>>①実際の活動の中で体験できることだと思いますが、いかがでしょうか?
信心とは、日頃の積み重ねの中で、勇猛精進の戦いによって進化していくものと確信しております。
その中で、師の指導を根本としながら、師の心を感じて、師の思想、哲学の根源に迫っていくことができる。

②この師弟不二の道の実践が、いかなるものであるかを表していたといってよい。

「師弟不二」に関する人間革命の引用ありがとうございます。
以上はいわゆる「信心の世界」です。<<
★①は私の実感です。確かに、ここは、信心と学会活動の領域です。

しかし、明確な目標を持ち、真剣に、ある意味命懸けで、御本尊に題目を唱える中で、御本尊と一体になる感覚になることがよくあるのではないでしょうか。
おそらく、多くの学会員はそのようなトランス状態とでも言うのか、不思議な体験をしていると思います。

私はこれは次元は異なりますが戸田先生の獄中体験に似たものではないか。そう思うことがあります。御本尊と自分との一体感覚は、自分の使命の自覚により、魂が震えるような感覚でもあります。

戸田先生の獄中体験は、簡単に言うと、法華経の会座にいたことの実感することで、地涌の菩薩としての自覚から御本尊を流布する使命を悟ったこと。でしたが。

これはアルベア様の言われている認知運動療法と関係があるのでしょうか?
>>私は40年にわたり臨床心理領域で仕事をしてきました。そうした中で、思考によるアプローチではなく「眼差し」のアプローチにより心身の不適応の方々を治療してきました。
その間、効果的な手法を見出しました。(1995年)
それは一般的には脳卒中・脳梗塞などのリハビリで用いられている認知運動療法です。<<
★質問です。認知運動療法は
認知行動療法と同じものでしょうか?あるいは同じ原理を用いているものでしょうか?

また、認知運動療法を少し調べてみました。正確に理解するために、
おすすめのサイトがありましたら教えてください。

また、”眼差しのアプローチ”について、もう少し詳しく教えていただけると助かります。
>>しかしこの認知運動療法と類似の技法が古今東西の宗教形態に含まれています。いわゆる中心礼拝・音読・書写等の修行方法です。<<
★これは信心や学会活動などの信仰の領域とクロスする箇所ですね。なかなか興味深いです。
>>「師弟不二」の実践を修得する技法が認知運動的なものと確信しております。
意識の使い方を自得することにより転写・不二にいたる体感・体験がもたらされるのです。「不二技法」と称しています。
ドラマ・ストーリーとして読んで学ぶのではなく、「眼差し」の訓練により、私の言う「獄中体験」がもたらされるのです。
この「不二技法」は臨床現場での切実な患者さん方へのリライフやり直し、生き直しとして展開しているものです。<<
★認知行動療法のように、意識の世界で過去の意味付けを変えていくことに似ていますか?
>>信心、創価学会の世界では、これまで一切公開していません。誤解する人々が多いからです。今回、ここまで触れるのは「不二」とは信心という限定された世界ではなく、生命の働き作用であることを知っていただければとの思いで触れました。<<
★生命の働き、つまりは、自分の中で、ある対象と一体化していくこと。という意味でしょうか?

信仰の世界とは、常に内観的に自分の命の中で、教えを体得する意識の世界と不可分であることと理解しています。また、その実感があります。
>>「悪と闘う」とは日蓮仏法の学会指導の基本ですが、その「悪」ですら反転し救済を求めている存在なのです。<<

★悪の救済。
これは、法華経の中での提婆達多として説かれていたり、
また、毒鼓の縁として説かれているからも、その通りです。
また、人間には同じ命が誰にでもあるのです。
>>「不二」になると善悪を超えた現象がもたらされていくものなのです。そのために臨床的な回復改善が結果として現れてくるのです。少々難しいですが・・・<<

★善悪を超えた現象、確かに難しいですね。
悪を悪として責めながらも救済をもたらすという意味でしょうか?
仏や不軽菩薩のような境涯と理解すればよいでしょうか?