2015年5月1日 投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 5月 1日(金)15時24分25秒 通報 編集済 随筆 新・人間革命 熱原法難の歴史(上) (2001年2月6日) それは、一九七九年(昭和五十四年)、二十世紀の″七つの鐘″が鳴り終わる、その時であった。 盛大に祝賀されるべき五月の三日を、創価学会は法難の渦中で迎えた。 御聖訓に「無量無辺の僧等・集りて国主に讒言して流し失ふべし」と説かれる通り、悪侶による迫害であった。 権力と癒着して腐敗した古き「権威」と、民衆の大地に根ざした清新な「正義」の対決。 いつの時代にも、「宗教革命」には、この構図が如実に現れる。 新たに興隆する民衆の勢力を妬み、押さえ込もうとして、旧来の権威・権力は、あらゆる謀略や画策を用いる。 釈尊の時代もそうであった。日蓮大聖人の御在世は、なおさらである。 私の会長辞任に前後して、人びとの心は撹乱され、揺れ動いた。そのなかにあって、私は、「熱原の法難」の歴史を、鑑として見つめていたのである。 「熱原の三烈士」の斬首は、一二七九年(弘安二年)といわれる。 ″魂の斬首″というべき、残忍な宗門の学会弾圧は、それから満七百年後に始まった。 不思議な時の符合と言わざるをえなかった。 「僧侶が彼の仏法を失うべし」とは、撰時抄の一節である。 熱原の法難もまた、腐敗した僧侶によって引き起こされた。 それも、仏法の正統を最も護り伝えるべき、当時の天台宗の寺院が、陰謀の巣窟となった。 源流である天台大師、また伝教大師の精神は消え失せ、有力寺院の長の地位は、特権階級の子弟が独占した。 寺院は、もはや清浄な信仰の道場ではなく、民衆を睥睨し支配する機関と成り下がってしまったといってよい。 かつて、大聖人が一切経を閲覧された実相寺や、日興上人が幼少の日、修学された四十九院、さらに滝泉寺など、富士方面の諸寺にあっても、高僧らは堕落の極みにあった。 その悪事を、若き日興上人は徹底的に呵責なされた。 これが、開祖の御精神である。そして学会精神である。 ゆえに牧口初代会長は、すでに戦時中、「大聖人御在世当時の天台宗は、現今の日蓮宗の中でも『日蓮正宗』に相当する」(『牧口常三郎全集』10、第三文明社)として、宗門の違背を痛烈に破折されたのである。 日興上人は、伊豆・鎌倉と、大聖人に常随給仕される一方、四十九院の住僧の資格も持ち続け、そこを拠点に天台宗の僧侶らを次々と折伏していかれた。 文永五年(一二六八年)、二十三歳の日興上人は、決然と幕府に訴状を提出されている。 これは、実相寺の院主の乱行を、五十一カ条にわたって糾弾されたものである。 その訴状によれば、たとえば、院主は、本堂や諸堂・経蔵などが破損しても、全く修理しなかった。 ましてや、今日、信徒の赤誠の浄財の供養によって建立された尊い建築物を、自ら勝手に破壊するなどという所業は、言語道断である。 また、その一項目として、寺の由緒ある桜を切ったことも糺されている。 桜を一本、無闇に切っただけでも、日興上人は弾劾された。 これほどに桜を愛惜される御心を汲んで、私は幾多の桜を植樹して、総本山を荘厳した。 その桜を、幾百本も無残に切り倒したのが、現宗門である。 さらに院主の坊に遊女を招き、遊興にふけるという醜行を、日興上人は容赦なく指弾された。 いわんや、一宗の法主が裁判所によって、買春の事実を明白に認定されるなどという現代の醜態は、仏法史上、前代未聞の不祥事である。 熱原法難の迫害の中心人物となった、滝泉寺の院主代・行智も、北条氏の一族で、権勢を恣にしていた。 格式ある寺の財産を私物化し、狸狩り、鹿狩りなどに興じ、寺の池に毒を入れて魚を殺し、その魚を売るなど、悪行を尽くして憚らなかった。 権力を背景に院主代の地位に就いたが、その実態は、世間の常識からも甚だ逸脱した「ならず者」であったといってよい。 まさに、大聖人がいわれる「法師の皮を著たる畜生」が、寺を占拠していたのである。 大聖人が身延に入山されたあと、日興上人は、富士方面の弘教を一段と果敢に展開され、妙法の一大勢力を構築された。 滝泉寺の僧であった日秀・日弁・日禅らが相次いで門下になっただけでなく、滝泉寺がある熱原郷の農民たちも続々と妙法に帰依していった。 それに対して、行智ら各寺院の院主や住職たちは、ただならぬ危機感を抱いた。 宗教的権威を利用して、武家等からの供養を貪る。「食法餓鬼」の彼らにとって、自らの権威を揺るがす正義の叫びは、大いなる脅威だったのである。 こうして行智は、″反法華党″ともいうべき包囲網を作り、北条家の地方事務所である下方庄政所の役人とも結託して、迫害を開始した。 彼らは、法華経を信ずる大聖人門下を、「外道」「邪教」と非難する。あるいは、あろうことか、念仏を唱えることを強要する。法華経を根本とする天台宗を標榜しながら、これほどの矛盾はない。 近年、日蓮門下と自称しつつ、「大聖人直結」や「御書根本」を悪口罵詈する、嫉妬の邪僧の顛倒にも通ずる。 時末の世か水濁り 仏法の乱れは麻に似て 民の恨みも悲しけれ 熱原の郷百姓に 若き丈夫愁いあり その名熱原神四郎 弟弥五郎 弥六郎 求道めし日々は浅けれど 清き血潮の布教進む 栄えの生命の法賛歌 (「熱原の三烈士」。本全集第39巻収録) 熱原の農民信徒の中核になる三兄弟が、大聖人の門下となったのは、弘安元年(一二七八年)の頃である。 それは、今、わが静岡の、勇敢なる富士正義県の誉れの同志が活躍される地域である。 神四郎らは文武の嗜みもあり、誠実で、しかも剛胆であり、人びとの信望も厚い丈夫であった。ゆえに、彼らが正法に帰依したことは、大きな波動を広げずにはおかなかった。 「権威を恐るること莫れ」 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」 「ただ一 えん円 におもい切れ・ よ善 からんは不思議 わる悪 からんは一定とをもへ」 この大聖人の仰せに、命を賭して応えゆく真正の師子が、民衆の大地から、ついに登場した。 無名の民衆の英雄が、「不惜身命」の信心を、堂々と厳然と示しきった。 ここに蓮祖は時を感ぜられ、未来永遠の全人類のために、一閻浮提総与の大御本尊を建立されたのである。 「師弟不二」の精神に立った、偉大な弟子が躍り出て戦った歴史が、熱原の法難である。 御聖訓には「もし恩を知り、心ある人びとであるならば、(大聖人が)二回、杖で打たれるならば、そのうち一回は代わって受けるべきではないだろうか」(御書一四五〇ページ、通解)と。 これまでの大難は、すべて、大聖人が一身に受けてくださった。 熱原法難は、初めて弟子が受けて立った大闘争であった Tweet