投稿者:多様性万歳   投稿日:2015年 5月21日(木)08時30分22秒     通報
今、ネット上で、また組織内で「動執生疑」が湧き起こっているように感じている。
一部幹部のだらしなさ、説明不十分の教義変更、会員同士の対立、公明党の政策など、
何を信じていいのか分からないような状況になっている。
このような状況の中、聖教新聞紙上で時々、ご健在の様子が報道される池田先生は、
なぜか何もおっしゃらない。
混迷の闇が日毎に深まっていく気配を感じているのは私だけではないだろう。

ふと晩年の日蓮大聖人とその時代の弟子たちを思い浮かべる。
僧侶も信徒も、大聖人がご在世のうちは、師匠に護られていたが、
大聖人亡き後、いかに広宣流布の運動を永続せしめ、民衆救済を続けていくか、
大聖人は絶えずそのことを考えられておられたと想像する。
そのために、御自身の出世の本懐として、
「一閻浮提総与の大御本尊」を顕されたのではないだろうか。
(大聖人の「出世の本懐」については『御書の世界』第三巻(2005年3月出版)を参考)
それによって、死後、五老僧の裏切りや一部の信徒の退転があったが、
連綿と民衆の中に正法が引き継がれ、広宣流布の運動が続けられてきた。

今、池田先生の目には何が映っていらっしゃるのだろうか。
私には、現在の状況を池田先生は全てお見通しであると思われる。
では、なぜこの混乱の中、何もおっしゃらないのか。
それは、このような状況が、池田先生が亡くなられた後に、遅かれ早かれ来ることを
誰よりもご存知だからだと思う。
先生亡き後、五老僧のように一部の幹部や会員が退転するかもしれない。
それはたとえ一部であっても、他の会員の動揺は計り知れない。
その時に、師匠はいない、信用出来る幹部も会員も身近にいない、
突然、大海原に一人放り出されたような、
または広大な砂漠に一人取り残されたような気持ちになる会員がたくさんでてくるだろう。

その大切な会員のために、今、いかに手を打つか。
それを考えて、池田先生は行動されているのではないだろうか。
一見、何もおっしゃらずに突き放したような感じを受けるが、
存命中にあえて「動執生疑」を起こさせ、会員、一人ひとりが
自分自身で考えて行動できるように、見守っていらっしゃる気がする。

池田先生亡き後、身近な幹部や同志が退転することもあるだろう、
その時、あなたはどうするのか?
ただ愚痴や非難に終始し、恨みつらみの人生で終わるのか。
いつか未来に突きつけられるその問題を、
あえてご存命中の今に、私たち弟子に考えさせようとされているのではないだろうか。

たとえ頼れる幹部や同志が身近にいなくても、我々には御本尊、御書、そして
創価三代の永遠の指導者がいる。
つまりすでに手にしているそのカードさえあれば、
あとは自身の信心次第で「一生成仏」ができる。
つまり誰にも依存する必要のない「自立した信仰人」、
「一人立つ広布の戦士(獅子)」になれるのである。

もし後世の弟子が、現在の学会本部のように、
師匠の「出世の本懐」を勝手に説明できるのなら、
それこそ私は自分の子供や孫たちに、池田先生の「出世の本懐」は、
日本中のみならず世界中に正法を広めただけでなく、
誰にも依存しない「自立した本物の信仰人、一人立つ広布の戦士(獅子)を
陸続と輩出したこと」だと伝えたい。
そして自分がその一人だと胸を張れる生き方をしたい。

今は、どの幹部が悪いとか、どの同志が間違っているとか、
他の会員の不安を煽り立てている場合ではなく、
これまで何年、何十年も池田先生に教えて頂いたことを思い出し、
自ら「一生成仏」すること、そして、その姿を通して、
自分の周りにいる人たちも「一生成仏」させていくことが、
師匠に安心して頂く、報恩の道ではないだろうか。

たとえ話で悪いが、学会首脳陣がみんな退転しても、
身近な同志がみんな退転しても、
御本尊と御書、そして創価の三代の師匠さえいれば、
あとは私たちの信心次第で必ず一生成仏ができる。
その「自立した信仰人」の集まりと団結が、
結果として創価学会総体の「発迹顕本」となり、
広宣流布実現のための創価学会運動の永続性につながっていく。
池田先生が、もしいなくなった後でも、それさえ分かっていれば、
十分なのではないでしょうか。

今回の教学レポートに始まる一連の混乱に対して、
池田先生はあえて何もおっしゃらないことで、
会員の「動執生疑」を引き起こし、
会員一人ひとりが自ら考えて、
自分自身でこの混乱を乗り越えていきなさい、と
無言の励ましを送っていらっしゃるように感じる。

もう今まで君たちには十分に教えてきたよ、
だから何も心配しなくて大丈夫、
あとは自分で考えて、自分の力で乗り越えて行きなさい、
そんな声が聞こえてくる。
以上