投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 3月26日(木)11時31分46秒     通報
大悪に対して戦いなさい。
90年代は宗門、そして次は学会内の悪と。宗門問題は予行演習です。なぜ宗門と徹底的にやろうとしたのか。
悪しき宗教権威からの脱却をはかり民衆仏法の確立をする。
大聖人の本意はここにあるからと私は考えます。

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第七十二回本部幹部会、教育・国際部総会(1993.11.18)

『大悪に反対する勇気なき人は与同罪』

戸田先生の怒りは、広宣流布を阻み、民衆を苦悩におとす「天魔」「悪魔」との戦いに向けられた。民衆の苦悩への同苦の嘆きであり、怒りであった。自分自身の私憤などではない。
大聖人は、「 瞋恚しんに は善悪に通ずる者なり」と明快に仰せである。

たんに、怒ってはいけない、批判してはいけない、というのではない。「瞋恚」すなわち「怒り」は、善悪の両方に通じると教えられている。

感情にまかせた私憤は、自身も他人も傷つけることが多い。しかし、正法を破り、民衆を苦しめ、信徒を蔑む「大悪」への怒りは、「正義の怒り」であり、「大善の怒り」である。それを今、私たちは実践している。牧口先生、戸田先生の指導通りである。大聖人の御聖訓の通りである。

自分たちの悪に従わなければ、それだけで破門、除名──信徒の立場を「切る」ということは、「勝手に地獄に堕ちろ」ということであり、「勝手に苦しめ」ということであり、「勝手に不幸になれ」ということなのか。

これほどの大悪に、怒らず、呵責しない人間は、日蓮大聖人の門下ではない。牧口先生、戸田先生の門下でもない。

正義を貫く人でもない。あまりにも臆病で、卑怯な、ずるい人間であろう。
牧口先生は、生涯、権威・権力にへつらわれなかった。

権力には「魔性」がある。それにとりつかれると威張り出す。ずるくなる。傲慢になる。他人を利用して自分だけ得をしようとする。こうした悪い権力、悪い権威とは戦わねばならない。大聖人のごとく。牧口先生のごとく。戸田先生のごとく。

創価学会にのみ、牧口先生が遺され、戸田先生が継承された、「御本尊根本」の不惜身命の「信心」がある。広宣流布を目指す「行動」と、幸福へ導く正しい「指導」がある。

ゆえに日淳上人が仰せのように、創価学会の信心には功徳が尽きないのである。
(日淳上人は学会には「良き信仰、正しい御本尊に正しい信仰、正しい指導、この三つが揃うておりまする。いよいよ大功徳を成づることは疑いないことと信じまする」<創価学会第十五回総会講演>と述べられている。

牧口先生は、
「大善を 嫉ねた み、 衆愚しゅうぐ にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく、大善に親しむ 雅量がりょう もないところに小善たる特質がある。

あるいは悪を好まぬだけの心はあるが、善をなすだけの気力のないのは、個人主義(利己主義)を脱しきれないからである」と指導されている。

すすんで悪いことはしない。かといって、積極的に善いことをするわけでもない。ただ可もなく不可もなく、世間体を気にしながら、大きな悪には黙って従い、大きな善には嫉妬する──こんな人生は、結局は悪である。大悪に反対しなければ大悪をなすのと同じである。 与同罪よどうざい となる、というのが牧口先生のお考えであられた。また仏法の基本でもある。

私たちの戦いは、決して自分たちのための私闘などではない。普遍の「法」の上から、道理の上から、人類と正義のための大所高所からの、避けては通れない正道なのである。

『「無限の前進」を師子王のごとく』

「佐渡御書」には、こう仰せである。
「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し」

──悪い権力者が正法を破るのに、邪法の僧等が、それに味方して、智者を亡きものにしようとする時には、師子王のような心をもつ者が必ず仏になれる。例えば日蓮のようにである──と。

悪い権力者と聖職者が手を組んで、正義の人を倒そうとする。広宣流布を妨害しようとする。その時こそ、師子王のごとく、一身をなげうって悪を呵責する──それこそが成仏の直道なのである。そのことを教えてくださっている。

皆さまは、師子王の心で戦われた。ゆえに今日、最高峰の、そして永遠不滅の創価学会ができあがった。そして、世界への広宣流布の流れは、ますます広がっている。

これまで、百十五カ国・地域にメンバーがいることを紹介してきたが、先日、ある人が調べたところ、地球上のすべての国に我が同志は足跡をとどめているという。なかには名前を聞いたこともない国もある。本当にすごいことである。

私たちは、きょう、牧口先生の五十回忌にあたり、先生のご生涯を手本として、いよいよ先生に喜んでいただけるような前進を続けることを誓い合いたい。

私も、これから全国各地を回る決意である。無限に全世界を駆けめぐるつもりである。無限に指導を重ね、無限に小説『新・人間革命』を書きつづっていく決心である。皆さまも、一緒に進んでいただきたい。

『”法主に背けば謗法” の邪義は宗門を自縛』

宗門は、あいかわらず愚かな醜態を演じている。「ハガキ」(学会員へ送ってくる)もそうである。″不幸の手紙″として、すっかり有名になった。その他、いろいろ言葉を飾って、脅かしたり、非難したりしているが、要するに何を言っているのか。

結局、「 法主ほっす に背けば 謗法ほうぼう だ」──中身は、この一点だけである。

宗門の本音は、この「法主教」を隠れミノにして、信徒に何も言わさず、陰で自分たちが好き勝手に遊び暮らしたいだけなのである。

その放蕩を批判する人間は、邪魔だし、うるさいから、謗法だと言って、切る。その正当化のためには「何があろうと、法主に背けば謗法」の一点張りで押し通す以外にない。要するに、これだけのことなのである。

こんな「法主教」など、改めて破折するまでもない。また、すでに論破され尽くしている。
(たとえば、日興上人は「遺誡置文」に「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」と、明確に「法主<貫首>絶対論」を否定されている)

ただ、一つ、きょう、指摘したいのは、宗門が本気で「法主に背けば謗法」と言うのならば、それは 自縄自縛じじょうじばく (自分が作った縄で自分をしばること)になるだけだということである。
欲で狂った宗門には、その道理すら、わからない。
牧口先生も戸田先生も、すでに五十年前、「神札は受けません」と、真っ向から、時の法主に背いておられる。

現宗門の理屈からすれば、これも謗法ということになる。もちろん、御書に、こんな邪義はない。
今、宗門は、両先生の入獄をも、「謗法の結果」と主張している道理となろう。

法華経には、法華経の行者が正法のゆえに権力や邪僧等から迫害されるとある。迫害こそ、法華経の行者の証明なのである。大聖人がそのことを身をもって教えられたことは言うまでもない。

牧口先生、戸田先生もまた、御書の通りに信心を貫いたがゆえに、獄につながれた。謗法どころか、法華経のために身命を 賭と されたのである。
(たとえば日亨上人は、『富士宗学要集』に、学会への弾圧を「昭和度の法難」として、その歴史を収め、たたえられている)

それを称賛するどころか、牧口先生の殉教をも謗法よばわりしようという宗門の言い分が、どれほど仏法に違背しているか。どれほど無残な、人間性も知性のかけらもない集団であることか──。