投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月 9日(土)10時55分0秒     通報

結果を生むのは行動であり、行動を生むのは感情であり、感情を生むのは一念である。これを道理といいます。信心する共通目的は、なんらかの善い結果(功徳)を生じさせたいからでしょう。そのためには、「一念の変革」こそが鍵であり、祈りを叶えることができるかどうかは、まさに一念を変革できるかどうかにかかっている。祈りを実現できる一念になってこそ、祈りは叶う。これもまた道理である。

では、どうすれば一念の変革ができるのか。そもそも一念の変革とは一体何なのか。これがわからなければ変革の仕様がない。ズバリ一念の変革とは「決断」を指します。たとえば、何か問題を抱えて悩んでいるとします。その時に、解決できるかどうか迷っている段階では、決断できていないということになります。祈りながら悩んでいることってよくあると思いますが、これは祈りになっていないわけです。決断とは、他の可能性を断つという意味であり、「なにがあろうと絶対に問題を解決する」と決めることを決断といいます。迷いや、解決できないという選択肢を切り捨てる。

元品の無明を断ち切るのは信の一字ですが、御本尊を信じるとは、自分自身を信じることとイコールである。自分を信じることを決断すること、これ、信心である。一体自分はどうしたいのか。「自分はこうしたい」と明確な意思表示こそが一念の変革であり、それが可能か不可能かは関係ありません。仏法は勝負といいますが、何と勝負するのか。それはまさに、決断できるかどうかこそが勝負であり、それができなければ、いつまで経っても結果を変えることは出来ない。故に信心というのは年数ではありません。

信心が深まると必ず魔が競い起こります。難も巻き起こります。その時に賢者は喜び、愚者は退くといいますが、では何故賢者は喜ぶのか。魔や難というのは、嫌でも決断を迫られるからであり、それは逆にいうと、一念を変革するチャンスでもあるからです。人は追い込まれなければ決断を下さない傾向にあり、平凡な日々においては、中々踏み出せないものであるからだ。そして決断するには勇気と生命力が必要となります。そういう意味で、今なにか苦しみや問題を抱えているというのは、「決断せよ」との、サインと取ることができます。

信心とは、可能か不可能かではなく、絶対に実現するとの一念にある。そして実現のために、全身全霊を尽くすことです。この一念になった時に、諸天善神も最大限に機能し、実現の方向へと進むことができる。悪との戦いにおいても、悪と戦うのか、それとも戦わないのか。これもまた決断なのです。54年の最高幹部の中で、悪と戦う決断をすることが誰にもできなかったが故に、一念において敗北を喫したわけです。では、現在、どれだけの人が悪と戦う意識があるか。意識しなければ決断することもできないというか、発想すらない状態ではないか。この段階ではお話にならないわけです。

決断しない自分自身から、決断する自分自身へと人間革命していくこと。これが真の意味での自分の人生を生きるということであり、そういう生き方を教えているのが創価の思想なのです。他人に合わせた人生では、桜梅桃李は開花しません。決断こそが価値創造の源泉なのです。決断を意識した時に、祈りの姿勢も変わり、結果も変わってきます。人が変わる時というのはまさに決断した時なのです。