投稿者:正義の走者   投稿日:2015年 4月 8日(水)09時30分4秒     通報

「根本の法を具現化したもの」とか、
「謗法の山にあるから」とか、
「電源と端子のような関係
はない」とか、
「受持とは目の前で拝むこと」とか、

御本尊の応身面しか観ていないことの現れですね。そのような頭で都合の良い教学を作ろうとするからチグハグなものになる。

ヨッシーさんの指摘するように、彼らが法身中心主義に傾斜するのは、実は日蓮や御本尊を単応身としか観れないことの反作用でしょうね。
やはり、上冥下契の報身をしっかり腹に据えて三身常住を観ていかないとこうした過ちを犯すことになる。
日寛上人を査定する前に、御本尊を「報身の当体である」とした日寛に学ぶべきですね。