2014年12月25日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年12月25日(木)09時51分3秒 通報 さらに御書を拝したい。 「正義」が明白であるにもかかわらず、 どうして、その正義を認め、従うことができない人々がいるのか。 その理由の一端について、大聖人はこう仰せである。 「少し自義に違う文有れば理を曲げて会通を構え以て自身の義に叶わしむ、 設い後に道理と念うと雖も或は名利に依り或は檀那の帰依に依つて権宗を捨てて実宗に入らず」(御書四五頁) ――自分の邪儀に少しでも合わない経文があると、道理を曲げて、 なんとか筋道をとおそうとし、無理に自分の邪義に合わせる。 たとえ、あとから経文の内容が「道理である」と心で思っても、 あるいは自分の名声や利益のため、あるいは自分に帰依している檀那の手前もあって、 誤った教えである権宗を捨てて、正しい教えである実宗(法華経)に入らない――。 これは、権経の人々が、我慢偏執のために、 法華経を持てない姿を描かれた御文である。 都合の悪い経文があると、へ理屈をつけて、 自分の邪義に無理やり合わそうとする。 内心では「正しい」と思っても、名利や見栄にひきずられて、 勇気をもって「正義」を支持することができない――。 時光に警告された「大魔」の使いも、 正しいものを正しいと認めたがらない点では、これ以上にかたくなである。 そして、このことを指摘されればされるほど、ますます妬みと憎悪の炎を燃やし、 なんとかその思いを晴らそうと悪逆の企てをめぐらすのである。 ゆえに大聖人も迫害の連続であられた。 私どももまた、真の門下として、その誉れの道を進んでまいりたい。 【「長野県婦人部の日」記念研修会 平成三年七月二十六日(全集七十七巻)】 Tweet