2014年12月19日 投稿者:解説者 投稿日:2014年12月19日(金)15時28分40秒 通報 「矢野絢也と創価学会の和解」年表から国政に携わるようになって以降の大事な部分です。 党を支配し蓄財、さらには先生を貶めてきた。 矢野と秋谷はつながっている。 それを知らないと54年以降は理解できない。 1967年1月—34歳で衆議院議員に初当選。直後の臨時党大会で公明党書記長に就任。 1970年—言論問題を利用し、竹入らと公明党の学会(CP)支配からの独立を画策。 ☆いわゆる政教分離として一般報道されているもの☆ 1977年~79年—宗門問題に乗じて、秋谷、藤原行正、内藤国夫らとCP打倒を画策。 ☆CP=池田先生のこと、週刊誌に情報をリークして先生のイメージを貶めた☆ 1986年12月—公明党委員長に就任。 1988年12月—明電工事件発覚。(株取引により10億の利益) 1989年5月—公明党委員長を辞任。同党最高顧問に就任。 1993年6月—政界を引退。以降は政治評論家に転身。「闇の流れ」「黒い手帖」等の連載・出版行う。 2005年4月—CPが杉山青、弓谷男を呼び、「最後の最大の敵である矢野をやる」と宣言し細々と指示。 2005年5月14日—欧州から急きょ帰国し戸田国際に直行した矢野を谷川、弓谷らがつるし上げる。 2005年5月—創価学会から激しい非難を浴び、矢野は謝罪し、評論・執筆活動を自粛。夕刊紙に連載していたコラムも中止に。公明党OB 3人に手帳を渡す。 2005年7月—弓谷男子部長解任事件。 2005年7月—週刊現代「学会&公明党のタブ――矢野極秘メモ100冊が待ち去られた!」 2005年8月—公明党議員OB 3人が、『週刊現代』に掲載された記事で矢野の手帳を強奪したかのように報じられ名誉を傷つけられたとして、矢野と講談社らを提訴。 2007年12月—手帳裁判の一審判決。学会側が全面勝利。矢野に総額660万円の損害賠償金の支払いと謝罪広告の掲載を命じ、手帳返還請求を棄却する判決を言い渡した。 2008年5月1日—創価学会を(自主)退会。 Tweet