投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月29日(土)09時34分53秒    通報
かつて『裁判の書』についてふれたことがあるが、その本の中に、
オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクのこんな随想が紹介されていた。

ツヴァイクが高校生の時の話である。一人の秀才の同級生がいた。
人気者だったが、あるとき、大会社の社長である彼の父親が、インチキをして検挙されてしまった。
新聞は彼の家族の写真まで掲げて悪口を書きたてた。

学校にもこられず、彼は二週間も休んだ。三週間目に突然やってきて自分の席についた。
彼は教科書に目をおとしたまま顔を上げなかった。
休み時間になっても、一人で窓の外を眺めていた。皆の視線を避けていたのである。

ツヴァイクたちは、彼を傷つけまいと、遠くから見ているだけだった。
彼がやさしい言葉を求めていることはわかっていた。しかし迷っているうちに次のベルが鳴った。
そして次の時間になると、彼はもう学校から出て、以来、二度と彼の姿を見ることはなかった――。

そして三宅氏は、この話をとおして、
「裁判官は人の運命に重大密接な関係のある仕事を行うのであるから、
いうべきことは敢然といい、為すべきことは敢然となすべきである」と述べている。
これは、そのまま、あらゆる指導者にあてはまる言葉であろう。

言うべきことは、言うべき時に、十二分に言わねばならない。
そうでなければ悔いを残す。

御書に「仏自身を責めて云く我則わち慳貪に堕ちなん此の事は為めて付加なり」(御書一四〇〇頁)
――釈尊は御自身を責めて、こう言われている。「法華経を知りながら説かなければ自分は慳貪(もの惜しみし、むさぼること)の罪におちてしまう。それは、まったく良くないことである」――と仰せである。

言ってあげればよくなることを、労を惜しみ、難を恐れて言わなければ、私どももまた「慳貪の罪」は免れない。

宇宙も歌っている。草も木も語っている。
私どもも正義を語ってこそ、宇宙との調和が実現する。

一言いってあげれば、パッとわかることがあまりにも多い。
また、わかりきっていると思うことでも、交通事故、戸締りの注意等々、一言いうことで、油断という魔を破れる場合がある。

あいまいさを残したごまかし、悪を見て見ぬふりをする卑怯さ、あらっぽく、すきまだらけの説明しかしない無責任、粗雑さ――これらは、みな悪である。

それでは、広布の組織にクモの巣のような、もやもやしたものを作ってしまう。
指導者はつねに明快でなければならない。

きちっと微妙なところまで、人々が聞きたいと思うところを先回りして語り、心から納得させる。
目の前を明るくしてあげる――そこに「声仏事をなし」、また、いわば「声菩薩事をなし」て、たがいに大いなる功徳に浴することができるのである。

【第一回SGI世界青年部幹部会 平成三年七月十日(全集七十七巻)】