投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 3月25日(水)15時55分18秒     通報

創価学会は公式に仏敵と認定された人間は容赦なく叩くが、それ以外は余程のことがなければ責めない。腐っても弟子であり、更生の可能性がある限りはギリギリラインで見守られる。ここに、内部の悪との闘争の難しさがある。内部であるが故に、常に同志への誹謗と紙一重の戦いとなるからだ。そして、僭聖増上慢は聖者のふりをしているので、人々からも慕われており、人相も仏のような顔をしているので惑わされる。どす黒い、いかにも悪人面であるのならわかりやすいが、そういうのは小物と相場は決まっている。

54年の迹門の池田門下は、僭聖増上慢に敗れ、師を見殺しにした。今は、本門の池田門下といわれているが、何をもって本門とするかは、僭聖増上慢を打ち破ってこそ真の意味での本門でありましょう。自動的に本門というわけではない。本門である証を示してこそ、本物の池田門下である。そして、内部の僭聖増上慢は、仏敵認定されるようなヘマをするとは思えない。先生から直々に薫陶をうけた弟子として、会員から尊敬されるポジションをキープしながら操っていくのが僭聖である。ヘマをやらかす愚かな人間であったら、どれだけ助かるか。残念ながらそんなに甘くはないでしょう。

現段階で、創価学会中枢に僭聖増上慢がいると仮定して物事を考えていくことをお勧めしたい。能天気ではだまされる。現場組織においては様々な問題があることは、なんらかの役職についていれば容易にわかることであり、同じように中枢にも問題が潜んでいる。中枢は組織を動かす権限がある分、魔も強い。透徹した信心でなければ、魔に食い破られてしまうであろう。だからこそ最高幹部は、会員に厳しい目でみられているほうがよいのである。
最高幹部の悪事や不祥事は、断罪されたほうがかえって本人のためであり、救われる。多くの会員はまじめに生きており、悪事や不祥事を犯している人は稀でしょう。そういう真面目な会員を指導する側の幹部が、問題だらけだったらお話にならない。ましてや宗教団体であるのなら尚更である。

仏法の因果律からは誰人も逃れることはできない。悪事を水面下で行い、会員が気づかなかったとしても、御本尊は見逃さないのである。一番おそろしいのは、悪事を働いても、何事もなく過ごせてしまう事。罰の現証がでることがどれほどありがたいか。罰が出れば、改心することもできるし、救われる可能性がある。何も起きないのは、無間地獄行きが決定されていることの証である。罰即利益とはまさにこのことであり、罰が出た時に、ありがたいと思えるかどうかで明暗がわかれる。幹部の悪事を暴くのは何故か。邪を責めることにより罰の現証を出し、幹部自身を救うためである。悪を責めることの根底にあるのは慈悲であり、それが仏の所作というものである。

釈尊が一番心配したのは提婆達多であり、だからこそ責めた。悪を責めなければ、悪は救われない。それはかえって無慈悲である。だからこそ先生は、繰り返し繰り返し、悪と戦えと指導されている。この心を受け継がなければ本門の池田門下ではない。そしてこの掲示板は、悪と戦う心を養うためにあると申し上げておきましょう。であるならば、どこまでも慈悲を根底とした掲示板であるべきであり、脱線・暴走して、あきれられるような内容にならないようにも注意してまいりたい。それが創価学会員としての矜持というものであるからだ。引き続き、皆様の素晴らしい投稿を期待するものであります。