投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月 7日(金)10時07分4秒
大聖人は、繰り返し、また繰り返し《たぼらかされてはならない》と仰せである。

たとえば、「松野殿御返事」には次のようにある。
「都て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ事にふれて移りやすき物なり、
鎧を著たる兵者は多けれども戦に恐れをなさざるは少なきが如し」(御書一三八四頁)

――すべて凡夫の菩提心(悟りを求めて仏道を行ずる心)は、多くは悪縁にたぼらかされて、何かあるたびに移ろいやすいものである。
たとえば、鎧で身を固めた兵士は多いけれども、戦いに臨んで恐れない勇者は少ないようなものである――と。

何ものにもだまされず、粉動されない。
正しき信心、勇気ある信心で変わることなく、広布に戦い続けていけるかどうか――ここに成仏のための根本要件がある。

そのことを、大聖人は教えられている。
ここで「たぼらかす」あるいは「たぶらかす」とは、《うまいことを言ったり、ごまかしたりして、人をだまし、あざむくこと》をいう。
『御書全集』には、この言葉がなんと五十回ほど用いられているという。
ちなみに「たぼらかす」とは、「たぶらかす」が変化した言い方で、意味は同じである。

かつて、ロマン派の詩人ユゴーの世界をめぐって
『人間と文学を語る』(潮出版社)と題して対談をした関西出身の創価大学教授によれば、
「たぼらかす」という言葉は、おそらく文献のうえで、大聖人の御書に初めて登場すると考えられるという。

同じ意味の「たぶらかす」、その変化した形の「たぶろかす」「たぼろかす」などは、かなり前に用いられている。
この「たぼらかす」という語形を記されている確かな文献は、大聖人の御書がもっとも古いのではないか、と。

そもそもこの「たぼ(ぶ)らかす」という語の由来は、「たぶる」にさかのぼる。
この「たぶる」には「狂」すなわち「狂う」という字が当てられる。
「狂」とはある説では、卓越した力が邪に働くことであるという。

その意味で「たぶる」とは、「心が乱れていること」「気が狂っていること」であり、元来、邪悪なものや力に、取り憑かれた状態をいうようだ。
また「たぶる」の「ぶる」とは、一説によると「振る舞い」の意味である。また「た」とは「激しい」という意味である、と。

すなわち「たぶる」とは、「振る舞い、動作が常軌を逸して激しいこと」をさす。
そこから「振る舞いが非常識で、理にかなわないこと」なども意味する。
また「たぶらかす」は、漢字では「誑」と書く。
これは「言」すなわち「言葉」と「狂」を合わせた字である。
この字は法華経にも出てくる。

「誑」とは、狂った言葉、真実を曲げた言葉を発することである。
この言葉は人の心や判断をも狂わせ、生活や人生をも狂わせていく働きをもつ。
本当に恐ろしいことである。
それゆえに大聖人も繰り返し「たぼらかされるな」と仰せなのである。

【第三十九回本部幹部会・第十六回全国婦人部幹部会・第一回関西代表幹部会 平成三年三月四日(全集七十六巻)】