2019年4月17日 投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月17日(水)11時45分47秒 通報 編集済 京都乃鬼新聞 2019-4-16 特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ= 「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編) 第14回(※印は弊社解説) 話を元に戻して、時代が進み 2009年、衆議院議員選挙で公明党は大敗しました。(※31議席から21議席) 民主党政権になり、自公連立は解消かと思われました。 と同時に、飛ぶ鳥も落とす様な勢いがあった丹治一派はカットされました。 これで私には一瞬希望が見えたんです。 丹治とその一派によって「学会指導」という名の下でおこなわれるパワハラは、それはそれはひどいものでした。 飲み会の席でも、仲間の盗聴をしたりして、丹治一派に連なる幹部へのグチや批判めいた事でも言おうものなら徹底的に査問されていました。 精神を病む者や自殺未遂者が出たほどだった。 (※本部そばの精神科医院には、パワハラを受けた若手職員が沢山罹っていたのは事実) 丹治一派における金の着服問題もありました。 まあ、金の問題だけなら、潮出版社から分かっているだけで500万円で、第三文明社も合わせると噂では6000万くらいでしたかね? そんな金額はかわいいもので(笑)、関西の大幹部に比べたら2桁くらい小さい話だけど。(笑) また、関西と言えば男子部幹部に火のついたタバコを手に押し付けたり、靴を投げつけたりする元関西青年部長もいましたが、それが今や弓谷(元全国男子部部長、女性問題で解任される)とともに査問の中心者ですから。(笑) (※丹治チームが切られたのは、選挙敗北によって佐藤浩氏をはじめとして、自民党の後ろ盾を失ったのが一番の原因だったと言う人達もいるが、これは正確ではない。) (弊社では、長年の独自情報により、丹治一派が切られたのは、彼らの存在自体が原田、正木、谷川、佐藤ら先輩大幹部達の立場を脅かすまで強大な勢力になったからだと分析する。) (※2009年迄の丹治氏は、創価学会本部、聖教新聞社、外郭団体や公明党及び地方の創価学会組織に至るまで、月刊誌 潮「池田大作の軌跡」の取材活動を通じて全国に闇のネットワークを作っていたのだ。) (※一部の幹部は「丹治は山友以上」と言っていた。) (※今では考えられないが、当時は「丹治第7代会長誕生」もあり得た勢いだった事は、丹治氏とその取り巻きならば、知っているはずである)(鬼笑) (※このことに危機感を抱いた人々が、丹治氏とその周辺の不透明な金の流れをリークして処分したのが実態に近いだろう) (※当時、パワハラ問題だけならば乗り切れると高をくくっていた丹治一派だったが、 さすがの長谷川氏、八尋氏、中野氏などでも、丹治氏の金銭問題は根が深く、守り切れなかったようだ。) (※しかし、まだ彼らのうち何人かは、丹治氏が復権する事を狙っている者もいる) また話を戻しますが、当初は公明党は衆議院小選挙区は撤退、黄金の三年で行こうとなっていたんです。 (※原田会長の下で初めて行われた2007年参議院議員選挙では選挙区で3人落とす。【これが原因で佐藤浩副会長は政治担当から外された】) (※また2009年衆院選では8小選挙区で全敗するなど大惨敗、 原田執行部は参議院議員選挙に続く2回連続の大惨敗となった。) (2010年参議院議員選挙(7月)でも比例区得票で伸び悩み、改選議席を2つ落とし事実上の3連敗。 原田会長は就任から4年間で、選挙戦において合計15議席を落としたことになる。) (※これらは「秋谷元会長がある意味、仕込んだ事」とは、ある情報筋より。) (※秋谷氏は選挙情勢や分析、対策をする上で非常に重要な要素を占める彼独自の情報網や人脈をあえて原田会長に禅譲しなかった。) (※選挙情勢が厳しくなっても、黙っていた。何故ならば、負けさせる事で原田体制の失脚か弱体化を狙えるからだ。) (※それであわよくば彼が自らの復権を勝ち取ることが出来るか、または原田会長体制を傀儡化させて、裏で操作する事が出来ると思っていたからだとその情報筋は教えてくれた。) (※案の定、池田先生から「やはり選挙は秋谷の力が必要だな」となり、秋谷氏が再度、選挙全般に絡むようになっていったのである) そして追い討ちをかけるように、ここで山下以知子さん(※当時関西婦人部部長)が要らぬ活躍をしてしまったんです。 どうしても選挙でリベンジをしたいと強く主張して、小選挙区撤退の流れを止めてしまったんですよ。 それで死んだはずの佐藤浩副会長が復権する因ができてしまったんです。 (※この事で秋谷氏は佐藤浩副会長を政治担当に戻しやすくなり、引退していた市川雄一氏も党務に戻した) (※一旦は息の根を絶たれた反池田勢力が蘇生した瞬間である。) (※ある時期、会内で権威を失墜して孤立し、宗門行きまで企てていた秋谷氏は、自分を追い越す勢力だった丹治一派の排除にも成功したので、池田先生に対する反撃の画策を始める) (※秋谷氏達は2010年5月に池田先生が脳梗塞で再度倒た事で、【選挙戦に弱い原田会長を一気に取り込み、池田包囲網を作りあげた】とは、ある内部情勢筋。) (※2010年、参議院選挙後、夏の最高会議は、池田先生不在の中で正木一派らが小選挙区撤退を主張する。) (※しかし、他の幹部達は、関西婦人部長が「リベンジしたい、リベンジしたい」と鼻息が荒い事に目をつけ、それを上手く利用し、小選挙区に候補擁立する事が決まり、これで創価学会執行部は、自民党と離れられなくなってしまったのだ。) ※【参考】(公明党の議席数、得票数の推移) (参議院のカッコ内は【選挙当時の改選議席】の増減を表す。 なおその後の繰上当選や辞職などで前回の当選者数と数字が違うがその比較ではない) (※2012年以降の【原秋】とは秋谷前会長が本格的に選挙に携わった時代の意味。市川雄一氏が2010年1月に党顧問に復帰する事から、この時期より原秋体制という人達もいるが、弊社では、2012年の選挙で本格稼働としたと【認定】する)(鬼笑) 議席数 得票数(万) 衆2003年 34 873 秋谷 参2004年 24(+1) 862 秋谷 衆2005年 31 898 秋谷 参2007年 20(-3) 776 原田 衆2009年 21 805 原田 参2010年 19(-2) 763 原田 衆2012年 31 711 (原秋) 参2013年 20(+1) 756 (原秋) 衆2014年 35 735 (原秋) 参2016年 25(+5) 756 (原秋) 衆2017年 29 697 (原秋) ※(講評) 原田体制から三連敗後、得票数自体は伸びていないが、原秋体制になり、議席数は増加している。 これは秋谷前会長の手腕によるものが大きいと考えられる。「選挙上手」であることの現れである。 但し、前回衆議員選挙は自民党の一人勝ち、同じ与党の公明党は敗北した。 秋谷マジックもそろそろ限界か?(鬼笑) つづく 提供は 敵からは恐れられる 味方からも怖れられる 京都乃鬼新聞社でした。 =広告= おにゆり乃 忘れ得ぬ風景掲示板 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/wasureenu.html 庶民列伝by京都乃鬼 庶民列伝 http://oniyuri.fc2web.com/syominretuden.html Tweet