投稿者:まなこ 投稿日:2017年 8月29日(火)09時18分50秒   通報
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3 目的・手段と権力悪

【池田】 目的は手段を正当化する――という考え方が、かつて、多くの組織や団体を推進してきましたが、この思想は、現代においても各種の組織・団体に根強く流れています。とくに政界における権力闘争のなかでは、この行き方がやむをえない、ないしは当然であるとさえされる傾向があります。ファシストは、この考え方を最も端的な形で利用したケースだといえましょう。
われわれは、ファシストまたはそれに類する野心的な権力集団が、再び地球上に台頭することのないよう、厳重に監視していかなければなりません。そのためにも、目的と手段の適正な関係を、人々がはっきりと認識することが必要でしょう。
これについての私の考えは、目的の正しさは、それを実現する過程で用いられる手段によって裏づけられ、証明されなければならないということです。

【トインビー】 目的は手段を正当化するものではありません。目的と手段は、倫理的に一貫性がなくてはなりません。これは経験から生まれた原理です。第一段階で意図的に悪事を働いておきながら、第二段階で正しいことをしようなどというのは、心理的にいっても不可能なことです。つまり、出発点が間違っていれば、決して正しいゴールには到達できないのです。

【池田】 その意味から、現在、各種の団体・組織が用いている手段については、検討すべき点が多いのではないかと考えます。目的については、どんな団体・組織でも一応の理念を掲げており、それもよほど極端な偏向的世界観に基づくものでないかぎり、それなりに必然性をもっています。つまり、ほとんどの場合、目的自体には多くの人々の共鳴する要素があるものです。
したがって、目的の正否を論ずるだけでは、その団体なり運動なりの本質をとらえることはできません。どうしても、その団体や運動が用いている手段を検討することが大切になってくるわけです。その掲げる目的は抽象的な観念にすぎなくとも、そのとりつつある手段は現実のものだからです。私も、目的と手段は倫理的に一貫性がなければならないとの、博士の御指摘に同感です。目的は高適であっても、手段がその目的に反するものであるならば、目的自体が欺瞞のスローガンになってしまいます。

【トインビー】 善なる目的を悪らつな手段で達成しようという考えの欺瞞性は、ドストエフスキーの小説『悪霊』と、その悪魔的な主人公におけるテーマになっています。これについては、また、二人の高潔な革命家、ロベスピエールとレーニンの生涯が、教訓を残しています。彼らはともに私利私欲がなく、人類の福祉に寄与すべく心身ともに捧げました。しかし、二人とも誤り――知性の誤りであるとともに倫理上の誤り――を犯しています。すなわち、彼らは自分たちの目的は善であり、その達成は重要なのだから、暴力の行使は、手段として正当化されると考えたわけです。その結果、地上の楽園を現出させる代わりに、ロベスピエールは恐怖政治を、レーニンは全体主義政権を、出現させてしまったのです。

【池田】 興味深い史実ですね。結局、目的をめざす以上、それを実現するための手段においても、断じてその高邁な理念性が反映されていなければならないということですね。その意味で、現在の平和運動にしても、自らの理想を実現すべきプロセスを絶えず明らかにし、その理想に手段を合致させていくべきでしょう。
次に、この目的が仮に理想的な手段で達成されたとして、そこに新たに醸成されてくる問題に、“権力悪”という問題があります。これもまた、われわれが常に警戒を怠ってはならない問題です。
社会は秩序を要求し、秩序の維持は権力を要求します。権力は人々を支配し、人々の行動を強制したり抑制したりする“力”としてあらわれます。そのために、権力はしばしば人々の自由を妨げ、人権を侵害する“悪”となるものです。本来、権力はより多くの人々を守るために、そして善なる目的のために行使されるべきものですが、権力者の心理的動機や目的観によっては、悪に走ることも少なくないでしょう。
いわゆる“権力悪”という言葉は、元来、権力者の心に思い上がりや利己心、名誉欲などを強めさせ、堕落させる本質をもっているということと、権力の行使が人々の人格を侵害し、ときには生存をも奪う危険性を秘めているということの、両面のニュアンスを含めて使われます。もしも権力が、人々の幸せと正義の擁護のために純粋な精神で、しかも、その力がなるべく害を及ぼさないという配慮のもとに行使される場合は、権力は正しく用いられているといえましょう。人人が権力に託す期待、希望もまた、そのようなものであるに違いありません。
ところが残念なことに、人間の本性は必ずしも善ではありませんし、おかれた状況によっては精神の純粋さも失われることが多いものです。その結果、権力者自身を含めた少数者の幸福と利益を実現するために、多くの人々を犠牲にする方向に、権力が行使されることになります。こうしてみますと、権力悪という問題は、権力者だけの問題であるかのようにみえて、じつは権力行使の対象である民衆の側の問題も、重要な因子としてこれに加わってくるといえましょう。

【トインビー】 一人ないしはそれ以上の数の人間によって握られ、他に向けて行使される権力というものは、人間生活において不可避のものです。それは、人間が社会的動物であり、権力はその社会関係から自動的に生じるものだからです。もちろん、権力が悪のためでなく、善の方向に行使されるということはありえます。しかし、あらゆる生物は、本来、自己中心的であり、貪欲ですから、権力を握った人間は、その掌中にある人々の利益を犠牲にしても、なおその権力を己れの利益のために乱用したいという、強い誘惑にとらわれるものです。
ところが、人間は社会的動物ですから、社会が、その成員の存続を不可能にするような無秩序な状態へと崩壊するのを防ぐことが、社会における第一の優先事項になります。このため、権力の不当行使のほうが、社会の崩壊に比べればまだしも小さな悪であるという状況も生じ、ここに権力の犠牲にされる人々が、ときとして不当な権力行使を黙認する理由もあるわけです。
いいかえれば、社会の成員としては、権力者の思うがままにさせるという代価を払っても、なお社会が崩壊を免れることを望むのです。もちろん、彼らもしばしば誤算をすることがあります。たとえば、一九三三年、ドイツ国民はヒトラーに救世主としての望みをかけ、すべてを彼に託しました。ところが、ヒトラーは意図的に彼らを第二次大戦へと巻き込み、結局は、一九二九年の世界恐慌で被ったよりも、さらには第一次大戦の敗北よりも、はるかに大きな災禍をドイツにもたらしたのでした。