2017年7月14日 投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月14日(金)10時43分25秒 通報 ◆ 10 自殺と安楽死 【池田】 かねてから博士は「愛する人たちや自分自身のために、死ぬことのほうがより小さな悪である」との結論に達した場合、人間は自殺する権利をもつと述べておられます。しかし、私は、自らの生命を断つということは、生命の尊厳という、人間にとって最も大事な理念に反することになると考えるのですが、いかがでしょうか。 【トインビー】 私は、他人の生命を奪うことは、最大の悪であると思っています。ただ自らの生命を断つかどうかの決定については、私の見解では、各個人の熟慮のうえでの判断に任せなければならないと考えます。同様に、自殺を認めるか否かについても、それぞれのケースで、事情によって異なってくるはずです。 もしある人が正気を失ってしまったとして、そのうえで自殺を図ろうというのであれば、私は、それは防げるものなら防いでやるべきだと考えます。また、たとえその人が正気であっても、人生の何かの困難にぶつかって、衝動的に自殺しようとしているらしいという場合、これもできれば防いでやるべきだと思います。それは、当人がその時点では人生を耐えがたいものに感じても、別な人々の判断では、自殺を防いでやれば、やがてはその困難な出来事も解決するはずだ、と思われる場合のことです。 死を取り消すことはできないということからいえば、自殺はできるだけ防いでやったほうがよいということになります。これは、死は取り消せないということから、死刑の執行は差し控え、戦争は放棄すべきだというのと同じ理屈です。いかなる場合でも「生命あるかぎり希望あり」という格言が当てはまるかぎり、自殺であるにしろ、仲間の手を借りるのであるにしろ、故意に寿命を縮めるのは望ましくありません。 ただし、寿命はまだあっても、もはや希望はない、という場合もあります。そのような場合、その人が正気を保っているかぎり、私は、当人が熟慮のすえ、なお死を願うというのを、邪魔してはならないと考えます。このような状況にある人が、もしも安楽死を願うのなら、私は、その願いはかなえてあげるべきだと思います。また、その人が自殺を選ぶというのなら、それも決してひきとめるべきではない、と断固主張したいのです。 【池田】 私は、苦痛と快楽は、論理的には補完し合うものであり、倫理的には同次元のものであると思っています。いいかえれば、苦痛は快楽の対極にあるということです。 私はまた、人間は快楽――たとえば麻薬に溺れることなど――のために生命を犠牲にすることは、戒めるべきだと考えています。私のこの考えが正しいとすれば、人間は、苦痛から逃れるために生命を犠牲にすることも、また戒めるべきではないでしょうか。 【トインビー】 私は、安楽死とは、ある人を罰するためでもなければ、その人から他の人々を守るためでもなく、本人自身への慈愛の行為として一個の人間を殺すことであると定義づけています。 たとえ正気の人でも、これ以上生き続けることに耐えきれなくなって、死を望んだり、殺してほしいと願うことは、ありうることです。肉親との死別、自己の能力の喪失などが、その人の人生を耐えがたいものにしたという場合もあるでしょう。また、他人の重荷となって生き続けることは、自分としては人間の尊厳と相容れないと感じる、という場合もあるでしょう。あるいはまた、もしかして、本人の個人的意見としては、熟練を要する治療や看護を他の患者たちに使えばもっと有益なはずなのに、それを自分が独占するのは、やはり自己の人間としての尊厳に背くと感じる、という場合もあるかもしれません。 このような人が死なせてほしいというのに、その要求を拒むべきでしょうか。私は拒むべきでないと信じます。そういう状況にある人の要求を拒むことは、私は、その人の尊貴な権利である人間の尊厳性を侵すことになると信ずるのです。 さらに、肉体的または精神的に、あるいはその両面で耐えきれないほど苦しんでおり、しかも正気を失っているという人の場合、問題はもっとむずかしくなります。この場合は他の人々――医師、政府、友人、親族など――が、患者のために決定を下してやらなければなりません。同じような状況でも、相手が人間以外の動物なら、われわれは躊躇せずに殺して、苦痛を取り除いてやるでしょう。人間にはこれと同じ権利がないのでしょうか。人間にもその権利がある、とわれわれがなかなか口に出していえないとすれば、それはわれわれが一人の人間を殺すことを、一匹の動物を殺すことよりも重大な行為とみなしているからです。しかし、もしその病人が耐えがたいほど苦しんでいて、しかも治癒の見込みもなく、苦痛を和らげてやる見込みすらないという場合、そのような躊躇はかえって臆病であり、非難されて当然ではないでしょうか。 さらに、こうした場合、その病人を殺すことはためらうとしても、ではその病人を生かし続けないようにするということは、躊躇する必要があるでしょうか。最近、医学は、本来ならば死を免れないはずの病人を肉体だけ生かしておくという、これまで知られなかった方法を発見しました。この新たに発見された医学の技術を、寿命を延ばしてやることが慈悲どころか、無慈悲に思われるような人々に応用するのは、医学の濫用ではないでしょうか。このような場合、その患者を死なせてやるほうが、間違いなく道理にかなっているはずです。とはいえ、ある人を生かしておくだけの力がわれわれにありながら、みすみすその人を死なせてしまうのは、倫理的にいって、その人を殺すも同然のことではないか、という疑問も残ります。 このように、すでに正気を失っており、そのため安楽死を頼むことも断わることもできないという人の場合、安楽死が正当視されるかどうかは、きわめてむずかしい問題です。したがって私は、こうした場合、最も異議の少ない解決法は、責任ある人々からなる委員会を設けて、それぞれのケースについて個別に決定を下すことだと信じるのです。そのような委員会の編成は、法律によって規定しなければならないでしょう。ただし、そのように法律的に形成される委員会の下す決定は、前もって法律で規定してはなりません。 Tweet