投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月 8日(土)15時15分52秒   通報
【池田】 宗教は、政治紛争や政治支配の隠れみのとして利用されてきたという博士の御指摘は非常に重要なポイントですね。といいますのは、実際には政治的野心から行なわれた戦争が、宗教戦争という名を冠せられることによって、宗教は有毒であるという印象が、人々の心に強く植えつけられてきたからです。
事実、人間を機械化された社会の部品として組み込み、権力が全面的にこれを支配できるようにするためには、宗教は大きな障壁となります。なぜなら、宗教こそ、人間の心を永遠なるものに結びつけることによって、権力支配の手の及ばない領域をつくる砦となるものだからです。人間の尊厳を真に実現させるには、宗教のもつそうした偉大な働きに、再び注目すべきでしょう。

【トインビー】 われわれは、何らかの宗教をもたないかぎり、人間ではありえません。そこでなされるべき選択は、宗教をもつかもたないかの選択ではなく、優れた宗教をもつか、劣れる宗教をもつかの選択なのです。
キリスト教のような比較的良い宗教が、十七世紀に至るまでの十三世紀間・旧世界の西端部の人々に力ずくで押しつけられていたのは、一つの悲劇でした。また、宗教の悪用とそれに絡む宗教的不寛容の結果、人々の心が西欧の伝統的宗教としてのキリスト教から離反してしまったことも、悲しむべきことです。この結果として、新しい低級宗教であるファシズムや共産主義が、キリスト教に代わって登場してきました。しかし、ファシズムや共産主義は、実際には、人間が崇拝するにはあまりに劣悪な、人間の集団力というものを崇拝の対象とする宗教なのです。

【池田】 宗教的信仰が争いの原因だからといって、信仰そのものをなくせば解決できるという考え方は間違いである――という点について、私たちの意見は一致しました。
私は、こうした問題は、信仰と現実政治との関係を明確に区分することによって、初めて解決されると考えます。そのうえで、さらにどの宗教が優れているかという宗教的信仰の問題は、あくまで人間精神の問題として、精神の次元でその勝劣浅深が争われるべきでしょう。その手段は、決して権力や武力、暴力の助けを借りるのではなく、教義自体の哲学的明晰さ、深遠さを理論的に立証することでなければならないと思います。

【トインビー】 政治と宗教の分離に関する限り、キリスト教よりもイスラム教のほうがよい歴史をもっています。予言者マホメットは『コーラン』の中で、彼が“聖典の民”と呼んでいた人々を、イスラム教法に従い、定められた付加税を納める場合は寛大に遇するよう、さらに保護さえ加えるよう定めていました。この“聖典の民”とは、キリスト教徒やユダヤ教徒のことであり、マホメットは、彼らのもつ教典が部分的に真理を明かしたものであることを認めていたのです。これは、同時代のキリスト教徒による、対ユダヤ教徒、対イスラム教徒政策よりも進歩的な政策でした。
東インドとか東アジア、日本、中国、朝鮮、ベトナムなどを訪れるキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒は誰でも、これらの地域で宗教的寛容が大いに行きわたっていることに驚かされます。日本では、仏教、神道の二宗教が互いに他を廃絶しようとせず、共存しています。これと同じ信教の自由は、しかし、旧世界の西端部においても、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が興る以前は、行きわたっていたのです。
私は、宗教こそ人々に完全な自由を与える領域であると考えます。政治や経済の分野では、今後はおそらく、自由が大幅に制限されざるをえなくなるでしょう。人々の生活は、物質面では、私企業の存続を不可能にするところまで、安定化を図らざるをえなくなるでしょう。しかし、精神面での生活は、安定化を必要としません。したがって、物質面を安定させなければならないような世界においては、信教の自由を保持することが、かつてなかったほど重要性をもってくるはずです。