投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月30日(金)08時15分34秒   通報
◆ 4 複数組織からの挑戦

【池田】 組織の時代ともいわれる今日、あらゆる個人が企業や自治体や国家、あるいは組合や趣味のクラブなど、同時にいくつもの組織に帰属しています。また、その企業は国家的または国際的な連合体に属しており、国家は集団防衛機構や国連などに加盟しています。こうした組織のなかにあって、人間はさまざまな形で権利をもつとともに義務を負わされ、束縛されています。このことは、現代人における自由という問題を考えるにあたって、非常に重要な点だと思うのです。

【トインビー】 制度に対する人間の帰属心の多元化が広く行き渡っているのは、現代を特徴づける傾向ですが、これは、十七世紀後半に西欧諸国に起こった精神革命、政治革命に端を発しています。そこにみられる著しい特色の一つは、技術の発達から生じたいわゆる距離の消滅ということです。これはいいかえれば、人類の帰属心を分かち合っている最も重要で、最も魅力ある組織のいくつかは、もはや民族とか国家といった地理的に稠密な、また地域ごとにまとまった組織ではなくなっているということです。

【池田】 ええ、個人にとっても、また社会全体にとっても重要である組織は、地理的に形成されたものよりは、むしろ機能によって形成されたものになってきているといえますね。現代社会は、そうした組織が複雑に組み合わされており、その成員に対する統率の手段も、科学技術の高度の成果が応用されて、巧妙になってきています。そうしたなかで個人の主体性と人格の尊厳、そして自由の原理を守るということは、今日ますますむずかしくなるとともに、またそれだけに一層重要になっているといえましょう。人類は、自然と人間の関係において種々の問題に直面してきましたが、現代は人間と人間の関係、すなわち組織の問題が、より深刻な課題となっているわけです。
過去においては、組織は未分化で一元的であった――つまり、政治組織はそのまま経済組織であり宗教組織であることが多かった――といえるでしょう。そうした組織にあっては、その頂点に立つ者が政治、経済、宗教のすべての権能を独占していたわけです。こうした組織形態は、人間が生きるために自然と戦わねばならなかった時代においては、やむをえないあり方だったとも考えられます。しかし、今日においては、望ましいものでないことはいうまでもありません。

【トインビー】 私は最も抑圧的な、したがって最も望ましくない制度とは、その成員である人間に対して、もっぱらその制度のみへの忠誠を要求するような、一元的タイプの組織であったと思います。その典型的な例として、政府が政治権力を用いて国教への帰依を国民に強制し、あるいは他宗教を信じる人々を刑罰に処したような国家があります。この種の制度上の暴政は、ユダヤ系宗教が起こった後の旧世界の西端部に比べれば、東アジアやインドではさほど一般的ではありませんでした。キリスト教国では四世紀から十七世紀にかけて、イスラム教国ではさらに最近に至るまで、国教が独占権、ないしは少なくとも特権的立場を与えられてきました。
今日では、共産主義諸国における共産主義思想が、同じような特権的地位を享受しています。共産主義はキリスト教から発したものであり、実際には、キリスト教の無神論的な異端思想なのですから、これはべつに驚くにはあたりません。
こうした、かつてキリスト教国やイスラム教国に普及していた一元的政体とは対照的に、今日の世界では、共産主義国を除くすべての国々が、いずれも多元的制度をもっています。ところが、この多元的制度は、インドや東アジアではこれまでもずっと普及していたのです。

【池田】 それは、私は神についての考え方からきているのではないかと思います。ユダヤ系の宗教は、全智全能の唯一絶対神を立てます。あらゆる活動はこの神の権威のもとに一元化されるわけです。
これに対して、アジアにおいては多様な神が考えられ、それぞれの組織や活動は、それぞれの神の権威に分散して帰属していました。たとえば、農民には農業の神があり、漁民には漁業の神があって、互いに一種の不可侵の精神がつちかわれていたといえます。

【トインビー】 たしかに、インドや東アジア諸国では、常に多数の宗教、哲学が存在していました。中国の場合も、若干の違いこそあれ、御指摘の点を証明しています。すなわち、漢の武帝の統治下の紀元前一三六年から紀元一九〇五年に至るまでの間、儒教がずっと帝政中国の国教的哲学となってきたことは事実です。しかし、それも道教の存続や仏教の移入を妨げるものではありませんでした。さらに、九世紀の儒教による仏教弾圧も、キリスト教徒やイスラム教徒、あるいは共産主義国が行なってきた異教徒弾圧に比べれば、期間的にも短く、穏やかなものでした。

【池田】 ところで、これは人間と組織の関係で洋の東西を問わずみられる傾向ですが、かつての家父長制というものが現代では大きく変容しています。つまり、かつては家父長が、ときにはその家族に対して生殺与奪権をもつほど大きな権力をもっていました。また、現代でいえば一自治体の首長に相当する領主などが、住民に対して絶対的な服従を強要していました。もしその意志に反したり、感情的に面白くないことがあると、それだけで処刑された例さえあります。一個人のもつこうした強大な権力が、きわめて不公平なものであることはいまさらいうまでもありません。
これに対して現代人は、とくに先進自由主義国においては、物理的・直接的強制力という点からいえば、かつてない自由を謳歌しており、人格の権利が保証されています。今日、個人の人格的権利を抑制したり、剥奪することができるのは国家だけであって、しかもそれは民衆の意志によって定められた――もちろん間接的にですが――法律を侵した場合に限られています。こうした変化は、人間が勝ち得た大きな進歩の一つといえましょう。