投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月14日(水)08時03分47秒   通報
【池田】 ところで、博士のいわれる経済面での平等と精神面での自由の調和こそ、未来の新たな社会に望まれるものですが、これを実現するのは、人間にとってかなりむずかしいことでしょう。なぜなら、経済面での統制を実現するには、強大で集中化された権力が必要であり、そうした権力を保持した人間は、人々の精神的自由を認めることについて、しばしば非常に狭量になりがちだと思われるからです。とはいえ、博士が示されたこの理念は今後の社会のあり方を考えるうえで、きわめて明瞭な指標となるものであると信じます。
これに関連して、さきほどもふれましたが、より理想的な社会体制をめざす試みとして、最近、先進諸国においては福祉国家への方向が志向されつつあります。とくに貴国イギリス、西ドイツなどの西欧諸国、ノルウェー、スウェーデン、デンマークなどの北欧諸国、それにニュージーランドなどでは、すでに福祉国家の体制に入ったとされています。しかし、この福祉国家という制度にも、多くの問題があるようです。
まず第一にいえることは、これはおそらくイギリスにも当てはまると思いますので恐縮なのですが、経済の成長が鈍化ないし停滞することがあげられます。富の分配が平等化し、国民生活が安定すると、労働意欲はおのずから減退します。つまり、福祉国家への目標が達成されたとき、目標の達成それ自体が経済成長への大きなブレーキとなりかねないわけです。第二には、社会保障が充実される結果、人間の独立心が失われやすく、国家のサービスに対する依存心が強まります。これが青少年の人格形成に与える影響は大きく、ひいては犯罪の増加にもつながると考えられます。第三には、これが最も大きい欠点であると私は考えますが、生きることの意味や社会における競争心が薄らぎ、人間の創造性が発揮されにくくなることです。
これらのほかにも、複雑な都市構造、環境資源問題、人口増加などとの関連のなかから、さまざまな欠陥が生じてくることが予想されます。
しかし、私は、このように種々の欠点をあげることによって、福祉国家そのものを否定しようというのではありません。むしろ私は、かねてから日本においては福祉経済社会を実現することが望ましいであろうと考えている一人です。福祉国家は、それが精神的福祉を基調とするものであるかぎり、理想的な人類社会に向かっての一段階として、今後われわれがめざすべき社会形態であろうと考えられます。

【トインビー】 私は長生きをしたおかげで、イギリスが部分的ながらも福祉国家になるのを見届けました。この一つの社会革命は――幸いにして無血革命でしたが――社会正義がより大幅に達成されてきたために特権を失いつつあった、かつての特権少数者からも快く迎えられました。ただし、イギリス経済が立脚する主な基盤は依然として私企業間の利潤追求競争であり、したがってイギリスにみる福祉国家はまだ不完全です。しかも、最近では、組合労働者たちも、資本家とともに、この経済的な“いたちごっこ”に加担しています。そのうえ、貧困線以下に取り残された人々も少数ながら存在しますし、資本家と労働組合員の中間で経済的に締めつけられている人々の数は、おそらく国民の大半を占めることでしょう。
いわゆる先進諸国はいずれも福祉国家制度を導入する方向へと移行しています。これらの先進諸国ではすべて――いやそれどころかビルマなど少数の例を除いた、ほとんどのいわゆる発展途上国においても――個人の物質的生活水準の向上をめざす経済成長が要請されています。しかしながら、私は世界中の物質的生活水準をすべて向上させることは、実現不可能なことだと考えます。これまでも、物質的生活水準の向上に成功した国々、ないしはそうした国々における階層は、いずれも経済力の弱い同胞を搾取することによってこれを成し遂げてきました。こうした富裕少数者にしても、その繁栄の坂道を無限に登り続けることはできないでしょう。かけがえのない地球の物的資源は有限なのです。富裕少数者たちは、この資源を加速度的なペースで消費し続けてきました。一方、地球人口の増大も加速度的です。このことは、とくに最低の貧困国や貧困階層に顕著です。近い将来、世界的規模で経済を安定させることが、世界的な破滅に代わる唯一の道になりそうだ、と私には思われるのです。
現代社会は、成功とか幸福とかを、あくなき増大を続ける経済的豊かさに視点をおいて判断します。しかし、そうしたところにおかれる目標というものは、経済によっては達成されないばかりか、精神的にも充足を与えるものではありません。ただし、それが人間の努力への刺激となり、勤労の意欲をかきたてることは確かです。これは逆にいえば、自由競争経済の社会では、貧困化への恐れが人々に拍車をかけているということです。
御指摘のように、福祉国家においては、経済的保障が与えられるため、そのかぎりではたしかに勤労意欲が減退します。児童教育、老齢年金、国民医療といった、生活上必要なものが国家によって保障されると、成人者でさえ、賃金に対して、子供が小遣いに対してもつような考えを抱くようになるでしょう。つまり、賃金というものは、目先だけの子供っぽい欲望を満たすのに使えるちょっとした授かり物だ、と考えるようになります。そのため、人々は、賃金とはまず第一に教育や医療の費用として必要なものであるとか、あるいは収入が無くなったときに備えて貯蓄すべきものであるとかいう考え方をしなくなります。たしかに福祉国家は、国民が怠惰で非能率的な仕事しかしなくとも、または質量ともにお粗末な仕事に高賃金を要求したあげく失業のハメに陥ったとしても、なお自分たちの最低生活線は保障されているのだ、と考えることを奨励するわけです。
この種の経済的保障は、生産性の低下だけでなく、人間に不幸をもたらします。人間は何もせずに何かが得られるとなると、それをうまく利用したがるものです。これは初めのうちは愉快でも、やがては気が滅入ってしまうものです。刺激がなくなって力がそがれると、人生は退屈で無意味なものになるからです。

【池田】 そうした弊害を克服するにはどうしたらよいか――。私は、やはり精神的分野の開拓以外にないと思います。つまり、従来の概念による福祉国家において主目的とされるのは、社会保障制度と完全雇用、租税政策による衣食住の確保であり、あくまでも物質的福祉の拡充です。そこに欠けているものは、精神的福祉に対する十分な認識であるといえましょう。もちろん「衣食足って礼節を知る」という言葉があるように、ある程度の物質生活の安定が、精神生活の向上のための前提であることも事実です。
私は、現代人の物質と精神の関係に対する考え方は、根底的に転換されなければならないと考えます。これからの福祉社会においては、まず精神的福祉水準の向上を第一の目標とし、物質的生活水準の向上はそれを支える二義的なものとされなければなりません。つまり、芸術、学問、教育、宗教など、文化的水準の向上による精神的福祉の充実が優位におかれ、そうした高度な精神文化社会建設のための完全雇用であり、社会保障であるという基本的な思考法が要請されます。この前提に立つならば、労働意欲の減退や生きがいの喪失といった問題も解決され、人間の創造性も発揮されるものと考えるのです。
一例をあげるならば、老人に対する福祉にしても、住宅や年金を与えることも大事ですが、一幅の絵を観賞することによって美の歓びを感じ、手工芸によって創造の楽しみを味わい、子供や孫たちとのだんらんに人間的な触れ合いを求めるといったことのほうが、老人にとってはより以上の幸せであるはずです。そこでは、“生きる”ということに対する明確な目標を自分のものにすることができるでしょう。そのうえで、平等な分配がなされて国民生活が安定し、しかも国民経済の成長が漸増的にみられる、ということが望まれます。
なお福祉国家をめざす先進諸国は、自国の福祉のみならず、いわゆる発展途上国への配慮も忘れてならないのは当然のことです。これら先進諸国では、すでに豊かな社会を現出して、経済成長のテンポをゆるめ、福祉社会へと向かうわけですが、そのさい、いまだ発展の途上にある国々に対しては、同様の経済成長率の抑制を求めるのではなく、むしろ積極的に援助を与えて発展を促し、互いの格差を埋めるという方向に努力をすべきでしょう。これは、博士のいわれる世界経済の安定化にも通じる道であると考えます。