2017年6月3日 投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月 3日(土)08時12分49秒 通報 ◆ 5 科学的思考法の限界 【池田】 科学には限界があり、その扱いうる対象はきわめて限定されています。しかも、人間にとって大きい関心事については、まったく明確に答えることができません。そうした、科学の扱えない問題に対して、人間に一つの信念を提示しているのが宗教です。その意味で、宗教こそ人間にとって、より重要な必需物であるということは明らかでしょう。 しかしながら、科学的思考法は、その扱いうる対象については、理性の光で照らし、一定の法則を発見することに成功してきました。私は、このような科学的思考法を“科学の眼”と呼びたいと思います。そこで、では宗教の思考法と“科学の眼”とはどう違うか、という点を考えてみたいと思います。 私のいう“科学の眼”とは、みがかれた理性の眼によって客観的に対象を照らし出し、そこに一定の普遍的な法則を見いだしていく認識力です。理性の力によって法則を見いだす過程においては、当然、分析的手段が使われ、普遍化、抽象化が行なわれます。また、分析的方法が対象の定量化をともなうことも当然でしょう。 【トインビー】 科学は、人間の知覚がとらえるデータ(既知事項)の全内容から気まぐれな抽出を行なうことによって、観察の対象として選んだ分野を、客観的に見つめることに成功しています。ただし、これは“客観的”という言葉の意味を「人々の意見が交換されたとき、必然的にすべての人間の知性に同一のものとして映る現象や思考」と定義した場合のことです。ところが、この“客観的”という意味を「実在自体の、ありのままの正確な反映」と定義するならば、話は違ってきます。つまり、諸現象のなかから科学が抽出するものは、そのように科学による処理を経て切り取られる以前の現象よりも、少なくとももう一段階、実在それ自体からかけ離れたものになりやすい、と結論せざるをえないと思うのです。科学が、いろいろな現象を解明しつつあると主張するのは、一応納得できます。しかし逆に、科学は諸現象を歪めているという非難もまた、同じく納得できるものでありましょう。 【池田】 科学的方法を用いる以前の対象物と、“科学の眼”によって抽出され定量化された対象物とが、まったく同一であるはずはありません。ここに“科学の眼”が、事実そのものに迫りえない“本源的限界”があるようです。 【トインビー】 科学はいろいろな現象の特性のうち、同一種類に属する個体のすべてには共通しないもの、したがって定量化できないものを、たしかに、意図的に無視します。 定量化の代償としては、独自性の無視ということが行なわれます。これはまさに高価な代償です。なぜなら、独自性というものは、実際には画一性と同じく、あらゆる現象における本質的かつ不可欠の特性であるからです。いろいろな現象のうち、いわゆる無生物界に属する種類の現象でも、それぞれある程度の独自性をそなえているものです。まして生物にあっては、この独自性という要素は、さらに重要性を増してきます。そして、意識をもつ生物において、その重要度は最大限に達するわけです。 こうみてくると、選択を好む科学の思考法が、物理学とか無機化学など無生物界の現象を扱うことに適用された場合に最大の成功を収めているのは、たんなる偶然事ではありません。これが、生命体を扱う、たとえば有機化学とか生物学などに適用されると、その成功率は低下してきます。さらに、精神のうちの意識層、つまり認識論や論理学などの分野に適用されると、成功率はさらに低下します。 そして、精神のうちでも潜在意識層への探究となると、これはもはやごく最近になってやっと開始されたばかりという状況です。もっとも、インド哲学では、すでに二千五百年もの昔からこの分野を探究していますが――。この、科学がこれまでに試みたなかで最新の、しかも最も難解な分野について、その成否を予測することは、むろん時期尚早です。しかし、科学が諸現象についてわれわれに知らせ、理解させる力をどれほどもっているかを測るカギがこの点にあることは明らかです。人間の知性が近づきうるすべての現象のうち、この潜在意識レベルの精神現象は、おそらく、われわれにとっては最も重要であり、同時に、科学にとっては最もとらえがたいものでしょう。 Tweet