2017年7月20日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 7月20日(木)21時57分18秒 通報 「善悪」について、「菩薩」の行動を通して語った対談があります。 とても感動した箇所でしたので、転載します。 単行本「生命を語る」2巻 p102~4 昭和49年11月20 初版 池田:日蓮大聖人の「十法界明因果抄」には「菩薩界とは六道の凡夫の中において自身を軽んじ 他人を重んじ、悪を以て己に向け善を以て他に与えん念う者あり」と記されています。 「六道の凡夫」つまり庶民の中で戦う。 しかも「自身を軽んじ他人を重んじ」るのです。 自身を重んじ他人を軽んじるのではありません。 世の中にはそういう利己の人が多いものだが - 。 川田:例え、民衆の中に入っていっても、利己的な自我のままにふるまうのは、かえって害を 流すだけです。 生命の魔性の暗躍を許すだけです。 そんなことなら、山林に一人ぽつんとたたずんでいてくれるほうが、他人に迷惑を かけないだけましというものです。 ところで、いまの言葉のあとに、「悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う」と ありますが、このなかで「善を他に与え」るというのは、すぐわかるのですが、 「悪を以て己に向け」とはいったい何を示そうとしているのでしょうか。 池田:すべての悪の根源を一手にひきうけるだけの勇気が必要だということです。 たとえば、菩薩について、「仏地経論」には「是れ勇猛の義なり」とある。 自己と他者の生命に巣くう魔性に挑戦し、それを打ち破りつつ、人々に楽を与える勇猛心 こそが、菩薩の心には脈うっていなければならない。 私達が、魔性に挑戦するべく勇気をふるいおこして、庶民を慈しみ、利他の実践に自己の 全生命をかけるとき、その行為が、私たち自身の生命に巣くったエゴイズムをぬぐい去り 抜き取るのであり、その結果、生命の「我」が次第にみがかれていく。 すると、その「我」のはなつ英知の光明にてらされて、他の人々の心にうごめく魔性の 暗躍をもはっきりとみてとることができるのです。 北川:利他の戦いを通して勝ち取った智慧こそが、菩薩の持つ英知なのですね。 池田:菩薩という言葉は、菩提薩埵(ぼだいさった)の略とされている。菩薩とは仏の智慧で あり、薩埵とは有情と訳す。 有情についてはまた何らかの機会にくわしく考察したいと思うので、ここではひとまず 生物、とくに人間の生命としておこう。 利他行を通じてみがきぬかれた菩薩の智慧こそは、仏の智慧のあらわれといえそうです。 慈悲の力と英知の光、勇気あふれる決意をはらんだ意思、そして何よりも、利他の色彩を おびた自我を、菩薩の境涯にある生命は保持している。 転載終わり 生命の実相は而二不二であり「善悪」についても、その体は一つで不二であるが、現実の世界に顕れる時は「善」や「悪」などのあらゆる違いの現象として而二として顕れます。 この而二とは、必ずしも二つの側面だけという意味ではなく、あらゆる差別相として現れるという意味でもあります。 法華宗の心は一念三千(いちねん さんぜん)・性悪性善(しょうあく しょうぜん)・妙覚(みょうかく)の位に猶(なお)備われり 元品の(がんぽん の)法性(ほっしょう)は梵天・帝釈(ぼんてん・たいしゃく)等と顕われ(あらわれ) 元品の無明(むみょう)は第六天の魔王と顕われたり 治病大小権実違目(997頁) 弘安元年6月 つまり、今悪事をしている人も「善心」と無縁ではないし、「善」の行いをしている人も「悪」の可能性を全く切り離したわけではないという事です。 仏であろうが、凡夫であろうが、その「体」の形は同じだというのです。 ですから大切なのは、題目によって元品の法性を顕現することで悪の源である元品の無明の働きを抑え、生命の「我」が磨かれる事によって、自身の内にある善悪、又、他の人々の心にうごめく魔性の暗躍をもはっきりとみてとる英知が活性化する、、という事だと思います。 そして、正しい判断力で、内外の魔性に挑戦するべく勇気をふるいおこして、慈悲のある正しい行動を起こすのが「菩薩」の行動です。 言うは易き。。ですが。。 南無妙法蓮華経は精進行です。。。 史人様、お元気でしょうか。 Tweet