2017年5月16日 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール 投稿日:2017年 5月16日(火)11時12分18秒 通報 戸田城聖全集 第3巻より (上) 創価学会が、牧口初代会長牧口常三郎先生に率いられて、大法弘通のために立たれた時は、 罰(ばち)という事を正宗信者が忘れていた時である。 牧口先生は罰論(ばちろん)を持って大法を弘通せんとし、内外にこれを説いて、あらゆる難にあったのである。 罰論を説くのは、日蓮正宗の教義に背くものとして攻撃した僧侶すらあったのである。 牧口先生は、厳然として法罰の恐ろしさ、法罰厳然たるを説いてゆずらずして、御一生を終ったのである。 「御本尊様は偉大な力がおありになる。罰無くしては大利益があるわけがない。子をしかる力のない父が、 子に幸福を与えられない。御本尊をじっと拝んでみよ。 『若し悩乱せんものは頭(こうべ)七分に破れん』との御本尊様の仰せが聞こえないか。 御本尊様が罰を仰せではないか」とは先生の持論で、私も先生の持論は正しいと思う。 これに反対するものは、大御本尊の威力を信じない者であり、 これこそ、釈迦仏法のやさしい慈悲の姿のみをあこがれる文上仏法のやからで、日蓮大聖人の正流ではない。 私もかさねてこれをいうが、御本尊の向かって右の御かたわらに「若し悩乱せん者は頭七分に破れん」 としたためられている。これが罰論でなくてなんであろう。 向かって左の御かたわらを拝せば「供養すること有らん者は福十号に過ぎん」と、 これは御利益をくださるとの御おおせではないか。 Tweet