投稿者:ジョーカー 投稿日:2017年 4月 3日(月)23時43分22秒   通報
もしも54年当時、戸田先生が会長で、池田先生が理事長(執行部)であったとしたら、師に責任を取らせる形で、会長をひきずり降ろすような結果にはならなかったことでしょう。そこに師弟があるならば、師弟を分断する悪を鋭く見抜き、打ち破ることが出来る。つまるところ54年とは、「師弟がなかった」ことの象徴である。そして、師弟分断の悪に屈した当時の執行部は、万死に値する。師弟の分断は、広宣流布そのものを破壊することにつながるからだ。「万死に値する罪」からはじめなければ、54年を総括することはできない。

どれだけ大善をなしても、師弟分断の悪と戦えなかったこと自体が罪である。仏法の肝心要は、悪と戦うことであるからだ。何事も、要を外してはダメになる。ここに、仏法勝負の厳しさがあることを知らねばならない。とくに学会は、リーダーが率先して悪と戦わなくてはならない。なぜなら、異体同心の団結を重要視している団体だからである。悪と戦うリーダーであれば、会員も悪と戦えるようになる。逆に、リーダーが悪に屈してしまえば、その一念に呼吸を合わせてしまう。これが学会組織の傾向といえよう。故に、リーダーが狂い、判断を間違えることほど恐ろしいことはない。

師弟なきリーダーは、いざという時に、師弟分断の悪に屈する。では、いざという時どうすればいいのか。答えは御書にある。「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(P957)と。師子王の心、すなわち勇気です。師弟の欠如とは、勇気の欠如といってもいい。いざという時に、勇気を出すことができるかどうかです。勇気を出すことができれば、誰もが創価の英雄になれるのです。勇気の信心の模範こそが熱原の三烈士であり、信仰年数も経験も関係ありません。

創価学会は、師弟分断の悪と戦えなかった罪を背負っている。それは弟子の罪である。その罪を変毒為薬し、師弟分断の悪と戦える創価学会へと転換していくことこそが、弟子の宿命であり、なさねばならぬこと。そのためには、54年を、万死に値すると位置付けることが重要です。そして当然、池田門下であるならば、当時の執行部の責任に留まらず、「自分の責任」としてとらえることは必須。いかなる理由があろうとも、師を守れなかった自分であったことには変わりはないのだから。この厳しき自己内省があってこそ、新時代の創価学会を構築することができるのです。