2017年4月3日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 4月 3日(月)06時46分8秒 通報 生涯&広布一筋兄弟メール 様 師とは「久遠元初の仏」 http://6027.teacup.com/situation/bbs/66912 蘭夢様 http://6027.teacup.com/situation/bbs/66937 「師」というテーマが出てきましたので、以前に書き溜めてはいましたが、投稿を躊躇していた 「師弟不二」に関する考察を投稿します。 観心本尊文段上 富山大石寺二十六世日寛謹んで記す 一、経に云く我が如く等くして異なる事無し等文。 この下は次に正しく釈成するなり。当に知るべし、前の正釈の中には人即法に約す。 故に「我等此の五字を受持すれば」等というなり。 今の釈成の中には法即人に約するなり。 これにまた二意あり。一には三身即一身に約す。謂く、久遠元初の自受用身なり。 二には一身即三身に約す。謂く、本地無作の三身これなり。 この釈成の文また分ちて三と為す。初めに「我が如く等く」の下は自受用に約して師弟不二を示し、次に「宝塔品」の下は無作三身に約して親子一体を示し、三に「寿量品」の下は久遠元初に約して君臣合体を示す云云。 初めに自受用身に約して師弟不二を示すとは、謂く「如我等無異」の一句は自らこれ標の文なり。 「如我昔所願」の下の四句は自らこれ釈の文なり。何が故に「如我等無異」なるや。 謂く「我願已満、衆生皆入仏道」の故なり。「如我等」の我の字、「如我昔」の我の字、並びにこれ久遠元初の自受用身なり。 故に「昔」というなり。いう所の「昔」とは、天台・妙楽この文を釈して玄・籤第三に展転明久の判釈丁寧なり。 然りと雖も、当流の意は「本行菩薩道」の時、猶甚だ近きを恨む。正しくこれ久遠元初の所願なり。故に「如我昔所願」というなり。 この久遠元初の自受用身、末法に出現してこの本尊を授与す。故に「今者已満足」というなり。 この本尊を受持する衆生は皆久遠元初の仏道に入る、故に「化一切衆生、皆令入仏道」というなり。即に久遠元初の仏道に入る 我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。 自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり。故に「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」というなり。 自受用はこれ師、我等はこれ弟子、既に「如我等無異」なり。豈師弟不二に非ずや。 以上 引用終わり Tweet