2017年3月29日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 3月29日(水)12時36分27秒 通報 >「開会」とは、爾前権教や仏教以外の教えでも、真実の一端を述べているのであれば、法華経の全体観の上から正しく用いることが できるというものだ。< この文は正しく用いるなら問題はないでしょう。 先生は法華経の智慧(大百1995年2月号 p19)でこうおっしゃっています。 「法の華の経」- 法華経は「経の王」です。王とは、他を否定するのではなく、一切を生かしていく立場です。 日蓮大聖人は仰せです。 「所詮・万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり、 然りといへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず・嬰児の水火を怖れざるが如し、 外典の外道・内典の小乗・ 権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず、」 (1473ページ) と。 法華経以外の哲学は、生命の法の「片端片端」すなわち部分観を説いたに過ぎない。それらは「部分的真理」ではあっても、それを中心とすることは、生命全体を蘇生させることにはならない。かえって、歪みを生じてしまう。これに対し、法華経はそれらを統一し、きちんと位置づけ、生かしていく「根源の一法」を説いているのです。それが、「法華経の智慧」です。 引用終わり つまり、部分観を説いた哲学を用いるにしても、「根源の一法」を中心に据えなければ、かえって歪みを生じる、、と言われています。 ですから、正しい大聖人の仏法を提示することなしに、爾前権教や仏教以外の教えを掲載したり、説いたりする事には、本当は、細心の注意を払わなければいけないのです。 例えば、天台の本覚思想などの危険がそのいい例です。 Tweet