投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月26日(日)09時06分42秒   通報 編集済
また、三従とは「幼い時には親に従って思うようにならず、

成人となってからは夫に従って思うようにならず、
年老いたときには子に従って思うようにならない。

このように幼い時から老年に至るまで、この三人に従って思うようにならず、
思ったことも言えず、見たいことも見ることができず、聞きたいことも聞けない(通解)」(御書五五四頁)

ということです。これが外典の教える三従です。

経典から見る女性の地位(五障三従)を見ていくと、
内典・外典ともに女性がいかに嫌われているかが分かります。

中国の人物で孔子と問答した「栄啓期」という人は、
人生の三つの楽しみ(三楽の事)の中で、女性と生まれないことをもって、一つの楽しみとしています。

要するに、爾前経では「女性の成仏」は、絶対に不可能だということです。
その限界を打ち破り、女性の成仏を可能にしたのが「法華経(提婆達多品)」なのです。

その法華経に命を賭して身読した大聖人は、

女性門下に対して、女性が持つ「偉大な力用」を教え生涯をかけて説ききっていったのです。

もし世の中のすべての女性がこの日蓮教学を真剣に学び、真実を極めていく実践をすれば、
少なくとも法華経を除外した宗教(宗派)には、女性は居なくなるでしょう。

男性は女性に比べて、安逸さや名聞名利にとらわれる命の傾向性がありますから、
その事実を知っていても女性には言いません。

なぜなら、宗教界の指導者層は、そのほとんどが男性社会だからです。

しかし見方を変えて、女性が忌み嫌われる理由を考えていけば、様々な要因が思い浮かんできます。

一つは、古代社会から封建社会を通じて、男性中心の社会制度や
家庭制度が築かれていく背景の中で、いわれなき蔑視と差別を受けてきたことが考えられます。

女性はそうした蔑視と差別によって、自信を失い、人間としての誇りも失っていったのではないかと思います。

二つ目は、女性特有の三毒(貪・瞋・癡)に流されやすい性格も、
女性みずからが低い立場に押しやる結果になったとも考えられます。

たとえば、鬼子母神に象徴されるように、我が子のためには
他人の子を犠牲にしても仕方がないという利己主義は、時代を超えて共通するものがあります。

すべての生命に普遍的な慈悲を説く仏法から見れば、これらの利己的傾向はまったく相容れないものです。