2017年3月10日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月10日(金)14時51分55秒 通報 編集済 まず、冒頭に述べた 「なぜ〝同じ話や文章〟を読んでも、その人によって感想や理解度が違うのか」 を考えていきましょう。 日蓮大聖人は 「この経(法華経)の文字は一字一字、ことごとく 生きている仏(因行果徳を備えた仏)である。 しかしながら、我々凡夫は肉眼なので、ただ文字と見るのです。 たとえば餓鬼界の者はガンジス川の水を火と見、人間は水と見、天人は苦悩を癒す水と見る ・・・同じ水でも見る者の〝果報〟によって見方は別々である(通解)」(一〇二五頁) と述べています。 そして 「これと同じように、この経の文字は盲目の者は見ることができず、 肉眼の者は文字と見、二乗は虚空と見、菩薩は無量の法門と見、 仏は一々の文字を金色の釈尊と見るのです」(同頁) と訴え 「経にある即時仏身(※即身成仏)とは、このことを言っているのだ」(同頁) と結論付けました。 どういうことかというと、 即身成仏とは〝一念の変革〟であり、人間革命という意味です。 人間革命とは何かというと、境涯革命のことです。 そして、同じ文字、同じ物を見てもそれぞれ見方が違うのは、その人の境涯によるのです。 物や文字をどのように見、どのように受け止めるかは、 見る者の〝果報〟によって別々です。 果報とは、過去の業因によってもたらされた現在の生命境涯のことです。 つまり、その人の果報は十界に現れ、 十如是にその全体が包み隠さず〝功徳〟となって現れるのです。 Tweet