投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時24分18秒  

「殷の紂王」の特徴は、暴虐な政治を行う独裁者。
「周の武王」の特徴は、善の政治を行う孝養の人であり、礼を尽くす人格者。

暴虐な政治を行う独裁者のもとでは、どんなに立派な大儀名分があったとしても
異体同心の団結などは絶対にできないし、優秀な人材も集まらないと思います。

そこにあるのは恐怖と脅しが渦巻く世界であり、私利私欲と保身と利害が結託する世界です。
誰も他人のために命を捨てようなどとは思いません。

しかし、年配者の意見をよく聞き、誰に対しても礼を尽くす人格者のもとには、

優秀な人材が集まり、大儀のためならば、
また、この人のためならば命も惜しまない、という人材が集まってくる「信義・信頼」の世界です。

これが世間の道理であり、仏法で説く団結の方程式です。
つまり異体同心の団結の要は「長の一念」で決まるのです。

日興上人は、この師匠の厳命を心に刻み、
最後まで一人の退転者も出さず、熱原の法難を見事に乗り越えていきました。

この弟子の「不滅の戦い」が機縁となって、師匠は出世の本懐を宣言したのです。
これは皆さんがよくご存知のことだと思います。

時はめぐり、今、私たちも同じ立場に置かれているような気がします。

池田先生の思想と学会精神を後世の弟子たちに「誤りなく」伝えていくのも先生の弟子ならば、
先生の思想を自分たちの権威のために「改ざん」して後世に伝えるのもまた先生の弟子です。

もしもこういう闘争に遭遇したならば、正義の弟子が戦って勝たなければ、
結果を出して証明しなければ、後世の池田先生の弟子に笑われます。

「何をやってたんだ、あの時の弟子は、だらしがない」――と。

日蓮正宗・七百年の歴史を見てもそうです。
六十数代続いた法主のなかでも真に尊敬できる法主は、たったの二・三人だけです。

曾谷入道殿許御書には
「涅槃経に云く『内には智慧の弟子有つて、甚深の義を解り、
外には清浄の檀越有つて、仏法久住せん』」(一〇三八頁)
とあります。

「智慧の弟子」は誰がなるのですか。

「清浄の檀越」は誰がなるのですか。

誰が先生の正義を護り「仏法久住せん」とするのですか。