2017年2月27日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 2月27日(月)19時02分26秒 通報 ◎「4・2」記念各部代表懇談会でのスピーチから(1993年4月3日、東京) どんな宗教も「本尊」がいちばん大切である。それでは、日蓮大聖人の仏法にお ける「本尊」の本義はどこにあるのか。大聖人御自身が、こう仰せである。 「此の御本尊全く余所《よそ》に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持《た も》ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(御書1244頁) ──この御本尊は、まったく、よそに求めてはならない。ただ、われわれ衆生が 、法華経を持《たも》って南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるの である──。 この御文を拝して、戸田先生は、このように講義された。(昭和31年3月6日、「 日女御前御返事」講義。『戸田城聖全集』第6巻)「大御本尊様は向こうにある と思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華 経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっし ゃるのです。これはありがたい仰せです。 この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理 即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即 の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。 ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さ い電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につな がっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がつい ている。ですから、われわれの命はこうこうと輝いている」 信心が強いかどうかである。信心が強ければ、自分自身が功徳聚(功徳の集まり )となっていく。大聖人は御本尊のことを「功徳聚」と仰せである。そして「此 の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1244頁)──この御本尊も、ただ 信心の二字に収まっているのである──と。 ゆえに信心強き人は、絶対に行きづまらない。何が起ころうと、すべてを功徳に 変えていける。幸福に変えていける。もちろん長い人生には、さまざまなことが ある。悩み、苦しみがある。しかし、それらを全部、自分自身の境涯を開く糧と できる。その意味で、信仰者にとって、根底は、一切が功徳であり、幸福なので ある。信心強き人に、「不幸」の二字はない。 日寛上人(1665年―1726年)は「観心本尊抄文段」の末尾に、こう述べられてい る。「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三 千の本尊、蓮祖聖人なり。『幼稚の頸に懸けさしめ』の意、正しく此に在り。故 に唯《ただ》仏力・法力を仰ぎ、応《まさ》に信力・行力を励むべし。一生空し く過して万劫悔ゆることなかれ」(文段集548頁)──われらがこの本尊を信受し て、南無妙法蓮華経と唱えていくならば、わが身が、そのまま一念三千の本尊で あり、蓮祖聖人(日蓮大聖人)なのである。 「(仏法に無知な末法の)幼稚の頸に懸けさしめ」との(観心本尊抄の)御文の 元意は、まさにここにある。ゆえに、ただ仏力・法力を仰いで、信力・行力を励 むべきである。一生を空しく過ごして、永遠の悔いを残してはならない──。 御本尊への「信心」によって、わが身が即「本尊」と顕れ、「蓮祖聖人」と顕れ ると明言しておられる。そうなれるために、大聖人は御本尊を顕してくださった のである。ここに、大聖人の仏法の極理がある。信心によって、わが胸中の御本 尊を開くのである。ダイヤモンドのごとき仏の生命を開き、輝かせるのである。 本来、無量の生命力は、自身の内部にある。無限の知恵の泉は、わが胸中にある 。それを、自在に涌現できるのが「信心」である。戸田先生は、よく言われてい た。「自分の中にあるものが出てくるのだよ。無いものは出てこないぞ」と。 強く清浄な仏の境界も、弱く醜い地獄・餓鬼・畜生等の生命も、全部、わが生命 にある。縁に触れて現れてくる。また、生命は三世にわたるゆえに、過去の宿業 が、大きな悩みとして現れ出てくる場合もある。しかし、「苦悩」の因が「自分 の中に」あるのと同じく、それをそのまま「幸福」へと転換しゆく力も「自分の 中に」ある。これが仏界の力である。 結局、人間とは、どこまでいっても、戸田先生が言われたように、「自分の中に あるものが出てきた」ものである。それ以上でも、以下でもない。だからこそ、 わが生命の大地を耕し、深く豊かに幸福の根を張らねばならない。「胸中の御 本尊」を開き、何ものにも揺るがぬ大樹の自分をつくらねばならない。それが、 境涯のうえでは優れた人間性や立派な振る舞いとなって表れ、生活のうえでは 功徳・福運となって現れるのである。 ゆえに大切なことは、「信心」があるか、ないかである。大聖人の「ただ心こそ 大切なれ」(御書1192頁)との仰せを、絶対におろそかにしてはならない。形式 ではない。地位でも財産でもない。「信心」ある人こそが、真の「幸福」の人で ある。 Tweet