2017年2月23日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 2月23日(木)15時05分12秒 通報 編集済 「魔競はずば正法と知るべからず」 この文は「魔が競わなければ、その法が正法であることを知ることはできない」の意ともとれるが、むしろ、前文の「この法門を申すには必ず魔出来すべし」を受けて「魔が競うようでなければ正法と思ってはならない」という、 強い意味が含まれていると拝すべきである。 三障四魔については、本章で詳しく明かされている通りであるが、三沢抄には「仏にならむとする時には・かならず影の身にそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す、設ひ・からくして六は・すぐれども第七にやぶられぬれば仏になる事かたし、其の六は且くをく第七の大難は天子魔と申す物なり」(1487-09)とあり、 三障四魔のなかでも、天子魔がもっとも強い魔であると示されている。この天子魔は第六天の魔王より起こるものである。 では、魔はどのようなものであるのか。魔の本性とはなにか、これはすでに論じたので、ここでは、仏法の上から簡単にふれておきたい。治病大小権実違目には「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)とある。 また祈祷抄には「元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入つて、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり」(1346-02)と説かれている。 われわれの生命にはもとももと、法性(悟り)と無明(迷い)とが内在している。むしろ、法性も無明も一体であり生命それ自体のあらわれ方の違いなのである。この根本の迷いである元品の無明が、第六天の魔王の働きとなって顕われるのである。 所詮、魔といえども、どこか他の世界からやってくるのではなく、信心修行する者の生命自体の働きによるのである。 信心して幸福になっていこうという生命の働きと、一方において、これを妨げる魔の働きとが絶えず争ってあるのである。 また、魔というのは、前にも述べたごとく向かい風にたとえられよう。一般的にも、運動する物体には必ず、その運動を阻止しようとする抵抗力の働くのは当然の道理である。運動力学では、その抵抗力は速度に比例するものとして表している。 無風状態のとき、ただ歩いても何も感じないが、自転車に乗って走ると空気の抵抗を身体で感じ取ることができる。 さらに、音速に近いジエット機などの場合は、いわゆる「音速の壁」という巨大な抵抗のショックがあるという。 これと同じように、三大秘法の御本尊を受持したときに、必ず魔が競ってくるというのは、まさしく、われらが一路、幸福境涯へとまっしぐらに進まんとするがゆえに、その前進を阻もうとする抵抗力であり、反作用ともいえる。 したがって、こうした働きがあること自体、仏法の正しさを証明しているのである。所詮、魔があるということは、幸福へ向かって、邁進している証拠ともいえる。大事なのは、魔を打ち破るだけの、強い信心に立つことである。 御義口伝には「此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」 (0751-15)とある。 Tweet