投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 2月23日(木)14時52分21秒   通報
兄弟抄 p1087ー8

されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事・一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡つて五百余年・南北の十師・智は日月に斉く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候いしが、 智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、 妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり、 此の法門は漢土に始るのみならず 月氏の論師までも明し給はぬ事なり、然れば章安大師の釈に云く「止観の明静なる前代に未だ聞かず」云云、又云く「天竺の大論尚其の類に非ず」等云云、 其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、 此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、 第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る 乃至随う可らず畏る可らず 之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、 此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。
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それ故、天台大師の摩訶止観という書は、天台大師一生の大事、釈尊一代聖教の肝心を述べたものである。仏法が漢土に渡って五百余年、当時の南三北七の十師達は、智は日月に等しくたとえられ、徳は四海に響いていたけれども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第について迷っていたのを、天台智者大師が五時八教の判釈をもってふたたび仏教を明確にされたばかりでなく、妙法蓮華経の五時の蔵の中から、一念三千の如意宝珠を取り出して、インド・中国・日本の
一切衆生に広く与えられたのである。

この天台の法門は、漢土に始まるばかりでなく、インドの論師さえ明かさなかったのである。
それ故、章安大師は止観を釈していうには「摩訶止観ほど明らかで誤りのない法門は、前代にいまだ聞いたことがない」また「インドの大論も、なおその比較の対象にならない」等といっている。

そのうえ、摩訶止観の第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である。
故に、この法門を説くならば、必ず魔があらわれるのである。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとはいえない。

止観の第五の巻きには「仏法を持ち、行解が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる(乃至)だが三障四魔に決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、
まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。止観のこの釈は、日蓮が身にあてはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来永久に信心修行の糧とすべきである。