2017年2月5日 投稿者:アルベア 投稿日:2017年 2月 5日(日)10時17分22秒 通報 編集済 映画「沈黙」についての問題提起 「人間の信仰観」と言う「眼差し」で鑑賞するならば宗派と言う愚考を超えた「真理」に遭遇し ます。古今東西の「健気な信仰者の実像」です。池田先生の言う「迫害と人生」です。 キング牧師・ガンジー等は凶弾に倒れ、トルストイは教会から破門され、チャップリンは「赤狩 り」でアメリカを追われ、そして現在は宗教の信仰者として国を追われている民がいます。⇒難 民問題です。 創価の査問・処分は現代の「赤狩り」「魔女狩り」です。でも安心して下さい「命に及ぶ事」で はないからです。 支配と服従のパワーゲームなのです。古今東西見られている支配者の「愚考と人生」なのです。 「創価の信仰」を熟考する時が来ています。「信仰論」の確立こそ今必要な事・・と言うのは、 思考・概念の世界 今、この時期に「沈黙」が封切られた事の現象が凄い意味なのです。人々への問いかけであり、 人間の宗教・信仰への問いかけなのです。「問いかけ」で終わるから「沈黙」でもあるのです。 「気づき」の促しなのです。 「問いかけ」は「個人」へのメッセージです。 時代遅れの「妄想」「妄念」の「創価信仰」では「理解」できない事です。「邪宗、外道の事」 という刷り込みが定着しているからです。世界を四箇の格言で見ると過ちになることは日本人の SGIの狭窄したメンバーを見ればわかること⇒某国の高橋等は亡国の人となる。創価は真言的 になっているのかもしれません。禅的かも・・・念仏的、いや律的、どうでもいい事が起きてい るのです。⇒「相対的現象・現実」の現象化にしかすぎない。 立派な信仰者・殉教者、歴史に残る人材は、排出できない教団なのです。どこに「創価仏」があ るのでしょう。支配と服従の普通の教団です。特別視する事は「思い込み」「信じ込み」にしか すぎないのです。 「信仰」はどこまでも「個人の事」です。「教団」という組織は見てわかるように「悪」に転じ るのです。 地球規模での「思い込み」「信じ込み」の解除が起きているのです。 気づく人々にとっては「沈黙」こそ「雄弁」なメッセージなのです。 ちなみに私は、多宝会の方々を誘い一緒に行っています。人生の総決算期を迎え、それぞれ決意 を新たにリライフ・やり直し、生きなおし、により「歓喜」しています。本部幹部会の再放映よ り歓喜しています。庶民大衆から乖離した創価にはもはや「歓喜」は消失しているのです。この 事も「仏」の働き作用なのです。 地球上の宗教的な概念のイノベーションが求められているのですが、硬直した思考・概念の方々 の元では何もできないのが現実です。だから、彼らには「沈黙」が続くのです。そして「沈黙」 するしかないのです。 Tweet