2017年2月2日 投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2017年 2月 2日(木)22時54分32秒 通報 赤胴鈴之助様 投稿拝見しました。御義口伝いいですね。 現場で戦う実践の教学をありがとうございます。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/63680 御義口伝講義録 第二 此の品述成段の事 >>大聖人が、御書のいたる所に、「日蓮等の類い」、「日蓮が弟子檀那」と、 おおせくださるのは、われら、凡夫を御本仏の境涯にまで、引き上げよう、 境智冥合させてあげようという、御慈悲のあらわれであり、まことに、 感激にたえないものである。<< 以下、赤鬼さんのブログより引用します。 第二此の品述成段の事 御義口伝に云く述とは迦葉なり成とは釈尊なり、述成の二字は迦葉・釈尊一致する義なり、所詮・述は所化の領解、成は仏の印加なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と領するは述なり日蓮が讃嘆するは成なり我等が即身成仏を説き極めたる品なり、述成一致符契するは述成不二の即身成仏なり此の述成は法界三千の皆成仏道の述成なり。 述成というのは、信解品第四で、四大声聞が、仏の譬喩品の説法を領解した旨を申し述べたのに対し、それを仏が承認して、さらに説明を重ねたことをいうのである。 御義口伝には、次のように仰せである。述とは迦葉の領解の立ち場であり、成とは承認の立ち場である。つまり述成とは、迦葉と釈尊の境涯が一致したことを示しているのである。つまるところ、述成とは、釈尊と迦葉の関係に限るのではなく、述とは所化、すなわち弟子の領解であり、成とは仏の承認なのである。 いま、日蓮大聖人の門下が、末法の成仏は、南無妙法蓮華経以外にないと納得することは「述」であり、日蓮大聖人が、その信心を賛嘆されるのは「成」に当たるのである。薬草喩品は、われわれが南無妙法蓮華経によって即身成仏できることを説き切った品である。迦葉の述と仏の成とが符節を合わせたように一致するのは、述成不二(師弟不二)の即身成仏を表わしているのである。この成仏ということは、法界三千 あらゆる森羅万象が皆成仏道、すなわち妙法の当体であり、不改本位の覚体であるということを領解し、また承認したことを意味するのである。 (略) 今まで述べてきたのは天台の経相である。この述成を、われわれの信心の立場から考えれば、どのようになるであろうか。 御義口伝にいわく「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と領するは述なり日蓮が讃嘆するは成なり」と。 すなわち述成とは、師弟不二、境智冥合をあらわしていると拝すべきである。 日蓮大聖人と日興上人のお姿こそ、述成であり、師弟不二なのである。 日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の大仏法を唯お一人余す所なく領解され、大聖人を正しく御本仏と拝した、第二祖日興上人こそ、別して「今日蓮等の類い」のお方である。 また、総じては、われわれ学会員が、もったいなくも「今日蓮等の類い」との仰せに当たるものといえよう。 しかして、五老僧やその末流は、日蓮大聖人を御本仏と仰げず、南無妙法蓮華経の大御本尊を信じないゆえに、謗法の徒であり、断じて師弟不二の義は成り立たぬのである。 われわれが御本尊を信じて、朝に夕に題目を唱えることによって、御本尊に境智冥合できうるのである。すなわち、わが身に仏界が湧現して、生命力豊かに智慧あふれ、永遠の生命を感得することができるのである。 大聖人が、御書のいたる所に「日蓮等の類い」「日蓮が弟子檀那」とおおせくださるのは、われら凡夫を御本仏の境涯にまで引き上げよう、境智冥合させてあげようという御慈悲のあらわれであり、まことに感激にたえないものである。 しかるに邪宗の教祖等と称する徒輩は、信者をあたかも奴隷のごとく遇し、信者の犠牲の上に君臨した姿であり、少しも師弟不二・境智冥合の哲理を備えていないのは当然のことであろう。 われわれの、指導の在り方の根本は、大聖人の御精神のままに、すべて、本人の正しい信心、幸福を得さしめるための、境涯を大きく開かせるための指導でなければならない。 また大学等の教育においても、ただ義務的に講義を繰り返すのみではなく、自分と同じ境涯にまで向上させよう、理解せしめようという姿があってこそ、初めて真の教育の本義が達成されるものであると思う。 http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1429380.html Tweet