投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟) 投稿日:2017年 1月29日(日)09時47分20秒   通報
人物注釈をwikiから引用します。

wikiから 細井日達氏 北條浩氏 引用

藤井日達氏 略歴[編集]
1902年(明治35年)4月15日、東京京橋で誕生。
1910年(明治43年)8月12日、総本山第57世日正を師範として得度し精道(せいどう)と名乗る。
1933年(昭和8年)、娘婿・菅野日龍能化(元・宗務院庶務部長、東京・大宣寺住職、道号・慈雲)が誕生。
1936年(昭和11年)、本伝寺(大阪府堺市)住職、
1939年(昭和14年)、長男・細井珪道師(元宗会議長、元東京・常在寺住職、2010年死去)が誕生。
1941年(昭和16年)、常在寺(東京都豊島区池袋)の住職となる。
1946年(昭和21年)、宗務院庶務部長に就任。
1956年(昭和31年)、総監に就任。
1959年(昭和34年)11月15日、第65世日淳より「血脈相承」を受ける。17日、日淳の遷化(死去)に伴い、「日達」と名乗り、日蓮正宗管長・大石寺住職、法主に就任。
1961年(昭和36年)11月、宗祖日蓮大聖人680遠忌法要を執行。大石寺三師塔東大塔建立。同年、大石寺塔中本種坊を創設。
1962年(昭和37年)4月15日、還暦を迎える。
1963年(昭和38年)3月、大石寺塔中遠信坊を再興。
1964年(昭和39年)3月、大石寺塔中雪山坊を再建新築。同年4月、大石寺客殿(本門大客殿)を再建新築。同年、大石寺塔中妙遠坊を創設。
1967年(昭和42年)12月、大石寺塔中本住坊再建新築(9月1日に本尊を書写)。
1969年(昭和44年)11月、大石寺塔中妙泉坊、妙住坊を創設。
1972年(昭和47年)4月15日、古稀を迎える。
同年7月、大石寺塔中百貫坊再建新築(5月28日に本尊を書写)。
同年10月、大石寺に正本堂を建立、大石寺常来坊、常灯坊を創設。
1974年(昭和49年)、妙信講(後の冨士大石寺顕正会)を解散処分にする。
詳細は「冨士大石寺顕正会#歴史」を参照
1977年(昭和52年)3月、大石寺塔中理境坊再建新築。
1978年(昭和53年)4月15日、第67世日顕に「血脈相承」を内付とのちに日顕自身が自己申告。
1978年6月、大石寺塔中遠寿坊を創設。
1979年(昭和54年)4月15日、喜寿を迎える。
晩年には心臓病を患い、同年7月22日丑寅の時刻、(医師不在により公式では早朝5時05分)フジヤマ病院にて、77歳で腸機能不全により遷化(逝去)

北條浩氏 概要[編集]

海軍兵学校(現在の海上自衛隊幹部候補生学校に相当)卒業後、大日本帝国海軍中尉(現在の海上自衛隊二等海尉に相当)として終戦を迎えた。
法華講を経て創価学会に入会した後は男子部第2部隊長、副理事長、副会長、理事長などの要職を歴任後、1979年(昭和54年)、池田会長の後任として、第4代会長に就任する。
また、公明党所属の参議院議員を1期務めた。

 経歴[編集]
1923年(大正12年)7月11日、北条釐三郎の長男として生まれる。学習院中等科を卒業。海軍兵学校(現在の海上自衛隊幹部候補生学校に相当)を第73期生で卒業後、旧日本海軍中尉(現在の海上自衛隊二等海尉に相当)として終戦を迎える。
法華講から創価学会に移籍後、1951年(昭和26年)10月、男子部第2部隊長を振り出しに、主任参謀、副理事長などを歴任。
1964年(昭和39年)11月17日、公明党結成に参加し、公明党副委員長に就任する。1964年(昭和39年)12月、公明党書記長に就任する。1965年(昭和40年)7月4日、第7回参議院議員通常選挙に、公明党公認候補として東京選挙区から立候補し、初当選。参議院議員を1期務めた後、政界からは退く。
1970年(昭和45年)、秋谷栄之助、森田一哉と共に、副会長。理事長を歴任。
1979年(昭和54年)4月24日、池田大作会長の退任に伴い、第4代会長に就任。
1981年(昭和56年)7月18日、入浴中に心筋梗塞を起こし、急死。享年58。後任の会長には秋谷栄之助副会長が昇格。

人物[編集]
先祖は、後北条氏河内狭山藩初代藩主の北条氏盛(後北条氏第三代北条氏康の孫の一人)であり、その嫡流にあたる。男系では伊達氏の子孫にあたる。
学習院時代の同窓に、作家の三島由紀夫がいる。
北条の死後の1985年、宮本共産党委員長宅盗聴事件について、東京地方裁判所は、宮本委員長の訴えを認め、北条を含めた当時の創価学会上層部と創価班幹部が盗聴に関与したとする判決を下し、確定した。この盗聴事件は後に同事件を根拠に創価学会を恐喝し、実刑判決を受けた創価学会の元顧問弁護士山崎正友が主導したもの。後に山崎は機関紙創価新報の記述が名誉毀損に当たるとして学会を民事で訴えるが、山崎の死去から約1ヶ月後の2009年(平成21年)1月28日、東京地方裁判所は判決で盗聴事件は山崎の独断で行われたと認定し、訴えを退けた[2]。これによって、北条や学会幹部の関与を認定した1985年の判決は事実上破棄された。
詳細は「宮本顕治宅盗聴事件」および「山崎正友#裁判で敗訴」を参照